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育って欲しい社会性とは
「社会性」ということばの意味を一意的に定めるのはなかなか難しいことです。それは、広く発達や教育に関わるさまざまな文脈で、極めて多様な意味合いが含まれ、多様な意味で用いられているからです。 「社会生活性・群居性」であり「社交性」であり「社会的スキル」であり「社会的行動」ととらえることもあります。あるいは「同情」とか「共感」と捉えて適切な場合もあるのです。 「社会性」という言葉が、子どもが身につけるべき特質や能力の中で「知性 ・学力」や「運動機能・体力」といったもの以外のほとんどすべてを包括的に指し示す、いわばとても便利な総称として用いられていることは確かです。 小学校入学を直前にして学校側が期待を寄せている子ども像と、親としてどのような家庭教育を施していけばよいか。この資料が「子育て」の多少の指針となれば幸いと思っています。 ごこう幼児教室/御幸照美 1・社会性は乳幼児期から育むもの 「私は、子どもの頃から、なかなか友達が作れない」 「私は、子どもの頃から、遊んでいる仲間ととけあって遊べない」 「私は、子どもの頃から、人とのかかわりが苦手であり、今もこのことで悩んでいる」などといった趣旨の感想をよく耳にすることがあります。 このようなことを耳にすると、人と人のかかわり、人間関係の形成は子どもの頃から、とりわけ乳幼児の頃から大きな比重を占め、影響を受けるものだと実感します。誕生時から、両親、親戚、周囲の人々とのかかわりは子どもにとって欠くことのできない要素ではないでしょうか。 親子関係や仲間関係を形成し、その関係性の中で生活しながら生活習慣、道徳、社会規範などを身につけていきます。一人ひとりの子どもがどのような人間関係を形成できるかが社会生活を送る上で大変重要になってくるのです。 プライベートな人間関係だけでなく、幼稚園や地域といった必ずしも親しい知人だけでなく、他人が含まれる集団の中でどのような人間関係を築いていけるかが円滑な社会生活を送る上で大切なことと思っているのです。 親子関係から仲間関係へ、そして幼稚園生活から学校生活へと社会性は拡大していきます。 「親しい友達とは、話は出来るがそうでない友達との会話は苦手」であるとか「皆で一緒になって何かをすることに尻込みしてしまう」ことなど程度の差はあるにせよ極度に苦手となると、集団の中で生活することに息苦しさを感じていくばかりでなく、周囲の人々も徐々に遠のいていくのではないでしょうか。避けようとしても避けることの出来ない幼稚園・保育所生活、学校生活においては大きな問題になってくるのです。 2・乳幼児期の社会性 自分や他人を大切に思えることが社会性の発達にとってもっとも大切で、最も基本的な要素であることは当然のことです。 このことは、たいていは親とのやり取りの中で受容され、大切にされているという感覚を通して培われる自分や他人への信頼感から派生してくるものと思います。 「安心して自分を出し、親を頼り、親に甘えられること」これがはじめて子どもが生活する家庭で必要とされる社会性だと思います。 1歳を過ぎた頃の子どもは、自分の意思を強く表現します。そして親をてこずらせて親子に大なり小なりの葛藤が生じてきます。 親の情動や意志と出会い、他人への気づきを経験するようになります。これが他人への理解の始まりと言えるでしょう。さらに、子どもの成長とともに、自分の欲求を抑え、待つ姿勢を身につけることや、自分の欲求に反しても大人の指示に従って行動することなど親からの要求も次第に増えてきます。その中で自分を主張したり抑制したりといった自己制御機能を働かせるようになるのです。また家庭の中でのいたずらや兄弟喧嘩などを通して他人を傷つけたり、他人が困るであろうことなどはいけないことと道徳への気づきが経験されていくのです。 3・幼児期から児童期の社会性 社会性の未発達な幼児、児童は自己中心的行動や発言をする場面がよく見られます。 集団での「遊び」でも自分に不都合が生じると泣いたり、すねたり、仲間から抜け出したりするのはその一例です。 また、習い事についても、協調してお話を聞かないこと、問いかけに対して無反応な態度をとること、自分勝手な行動をとること、周囲の子どもたちの意見に攻撃的であったりするのも社会性の未発達といえるのではないでしょうか。子どもが成長するにつれ、親以外の大人や自分と同じ子どもたちがたくさんいる環境(幼稚園、保育所、教室)へ、そして小学校へと生活の場を拡大していきます。同時にそれに応じた必要とされる社会性も増え、求められていきます。 そのような環境では、まず、親以外の大人である先生との関係を築くことが期待されます。親と違って、自分だけが独占することは許されません。しかし、先生から受容される経験を通してそのような他人でも信頼感を抱けることが必要になってきます。そしてこの信頼感を基盤として園や教室や学校でのルールや善悪の判断を身につけていきます。 年齢とともに子ども同士のかかわりの占める割合が多くなります。子ども同士で遊ぶためには「自分は何をしたいのか」を相手に伝え、また逆に「相手は何をしたいと思っているのか」を考えなければいけないし、考えるようになるのが子どもたちに求められる課題なのです。 4・子ども同士の争い事 子ども同士が遊ぶため、学ぶため「自分は何をしたいのか。どうしたらよいのか」を相手に伝え、また相手は何をしたいのかを考えなければなりません。 「学ぶために自分は何をすればよいのか」は子どもなりの計画性と実行性が求められます。 相手が大人なら、伝達しきれないことは察してもらえるし、理解できなければ補ってもらえますが子ども同士ならばそうもいかず、そこに大人とのやりとり以上にコミュニケーションスキルが必要となってきます。コミュニケーションスキルがうまく作用しなくなった時に喧嘩が生じるわけです。 子ども同士の遊びについても、互いに主張しあい、それを調整していく事態が生じます。自分の欲求を抑え、相手の気持ちや意図を考えなければなりません。実際3歳〜4歳頃までは独占欲が強く、保育者(先生)を独り占めしたり、おもちゃを取られまいとする行動場面が頻繁に見られます。そのたびにいざこざから喧嘩に発展するのです。 このような経験を幾度となく繰り返しながら、このような状況にある馴染みのある友達の気持ちを理解するようになり、社会性は次第に発達していくのです。 やがて、数人の子ども達には、ルールが生まれてきます。 初め「お面をかぶっていないと仲間に入れない!」あるいは「カードを持っていないと仲間に入れないんだよ」などと恣意的(勝手な考え、気ままな)なルールを作り,ときにはそのルールを巡っていざこざを起こしたりします。そのうちに、子ども達の間で共有できるルールを作りそれに従うようになります。 園や学校では、クラス活動も組まれています。紙芝居をみたり、手遊びしたりなどクラス活動をともに楽しむため自分がどのような行動をしたらよいのかを子どもたちは学んでいきます。 このように園や学校での生活は、親以外の大人との関係や友達との関係、友達間でのルールや園や学校でのルールに気づき、それを受け入れ行動することが期待されるのです。 幼児期の道徳性は他律的であるとされています。大人から叱られるのではなく、子ども自らの判断で自分の行動を決定できるように促すことが必要であり且つ重要であると思うのです。 信頼できる大人や好きな友達と一緒にいたいから、一緒に遊びたいから自分を抑えて我慢できるし、ルールに従えるのではないでしょうか。それゆえにこの時期は、大人と一緒に何かをすること、友達と一緒に遊ぶこと、そしてクラスで活動することなどの楽しさの中でさまざまな葛藤を多く経験することにより子どもたちは自ら社会性を培っていくのではないでしょうか。 5・小学校入学するまでの社会性 小学校に入学するまでに身の回りのことを始めとして家庭でも幼稚園、保育所でもさまざまな場面でこれまで以上に自立的な社会性が期待されてきます。 学校という場は、教師という大人との関係やクラスや学校全体の中での人間関係や活動への積極的参加が求められます。 教師との関係は、目上の人との関わり方を学ぶのが第一歩となります。つまり言葉の使い方、行動や礼儀(所作)などが代表的なものとして挙げられるでしょう。例えば、家では何か欲しいときに「お母さん,紙」ですむことが目上の人とのコミュニケーションでは「先生、紙をください」「おじさん、お土産いただいてありがとう」と言わなければなりません。またときには教師のメッセージに伴う情動,情報を察することも求められます。さらに学校では、その善悪は別として、教師の指導の下、ある決まり切ったコミュニケーションスタイルを学ぶことも期待されます。「これから○○を始めます」「これから○○を発表します」といった決まったパターンや流れを取り入れ、自ら遂行できる力が期待されるのです。 クラスでの活動についても、さまざまなことが期待されます。自分の意志とは関係なくしなければならないことが迫ってくる。クラスで係りを決めたり、決められた役割をこなしたりすることなど能動的な参加が求められてくるのです。そのためには、仲間同士との会話や目上に対する会話に必要な言葉も社会性を育むのに重要なことと思います。どの様な時にどの様な言葉を、どの様な環境のときにどの様な言葉を使うか、日常生活の中で親は年齢に応じて、適切な言葉を教えていかなければいけないと思うのです。 6・自ら培っていく社会性 子どもたちは、社会性を人とのかかわりの中で、ときには他人との葛藤を通して、試行錯誤しながら、身につけていきます。そして、それを支えるのが他人からの受容感であり、暖かい人間関係だと思います。そのためには、できるだけ多くの、同じ年齢の子どもたちと接し、いろいろな場面でのコミュニケーションを持たせる機会を作らなければなりません。また、同じ目的を持った多くの仲間の中で行動や発言(発表力)も徐々に確立しなければいけないと思うのです。 社会性が身につくことが当然のように思いがちですが決して簡単なことではありません。勿論無難にこなしているように見える子どももいますが、不安や迷い、挫折感や抵抗感を経験しながら徐々に身についていくのです。 私たち大人は、子どもたちが社会性を身につけていくことは決して容易なことでないことを心にとどめながら、子どもたち自らの社会性の発達を幼児期のうちから支え、促していく必要があると思うのです。そのためには、いろいろな場所で、いろいろな人(見知らぬ友だち)と接する機会を多く持つ必要があるのです。 7・現代っ子の特徴 道にべったり座り込んでいたり、電車の中でお化粧をしたりする若者、電車の中や演奏会で走り回る子ども、講演中などに、携帯電話で話をしている人たち・・・場所をわきまえない行動は大人から子どもまで目にすることを数えれば枚挙にいとまがありません。「そのたびに感じるのはこの子どもたち、この大人たちに社会性があるのだろうかという疑問です」 「場所がらをわきまえて行動する」あるいは「場所がらを心得るようにする」は本来、日本の教育の一つであったように思います。 公の場でも、家庭内と同じような行動をとる人たちは、自分の生活空間を私的な空間と公的の空間に分離することが出来ず,どこまでも私的な空間を拡張しているように思うのです。こうした現象の原因として子離れしようとしなくなっている親の影響が大きいと言われています。 つまり子どもたちが成長していく過程で、親から離れて社会と接する機会が、非常に少なくなっているからと言われているのです。その現状が、生活空間の不分離の起因になっていると考えられるのです。 子どもは、幼い時は母子分離を果たすことで、探索行動を始め、少しずつ社会に参加していきます。 そのプロセスで小さな挫折を繰り返します。家と同じようにおもちゃを使っていたら他の子どもにとられたり、他の子どもと遊ぼうと思って声をかけたら思うような反応が得られなかったりします。この小さな挫折は、私的空間と公的空間が異質であることを体験させます。子どもたちは、最初は周囲の大人に援助され、挫折を乗り越えていきます。その過程で、他者の目を自覚するようになり、公的空間での身の処し方を学んでいきます。やがて、自分で挫折を乗り越える力を身につけ、自分に自信を持って、大きく社会に踏み出していくことが可能となるのです。 このような小さな挫折の機会を子どもに十分に与えない親が増えているように感じています。子どもが自立して外の世界を探索しようとする時に、親の支配下に子どもを置こうとしてはいないでしょうか。 例えば、子どもが傷つかないようにと、乱暴と思える子ども、意地悪をするように見える子どもがいる場所には近づけず、別の場所をすぐに求めようとしてはいないでしょうか。子どもを守ろうとしているように見えますが、実は、親の判断で子どもの経験を制限しているのです。 また、親自身が挫折を恐れて、トラブルを避けるために子どもを公園に連れて行こうとせず、排他的なグループを作ってそこに安住させようとしてはいませんか。このような親のもとで子どもたちは,私的空間と異質な空間に出会う経験が少なく、緊張を強いられることも少ないのです。常に親の支配下にある居心地のよい空間で生活することになるのです。そうして育った子どもたちにとって、自分の私的空間に属さない他者は、透明人間となってしまうのです。 周囲の人がいても、自分には関係なくなってしまい、周囲が自分をどのように見ているのかが、まったく気にならなくなってしまうのです。このことが先に述べたような場所がらをわきまえない行動を取ってしまう一つになっているのかもしれないのです。 8・公的空間と私的空間の逆転化 幼稚園の先生、保育所の先生から、親が迎えに来たとたんに態度が変わってしまう子どもがいるという話をよく聞きます。幼稚園、保育所ではいい子で、家ではわがままということではありません。その逆なのです。幼稚園の先生、保育所の先生の言うことは聞かずにふざけている子どもが、親の姿が見えたとたんに急いで身支度を整え、親の言うことを素直に聞いています。その姿は、親が迎えに来てくれたことが嬉しくて、というよりは親に対して緊張している、と言った方がほとんどです。 心休まるはずである家庭が、親と子の一対一の緊張を強いられる場面になっていることが推察されます。このような環境の中での子どもは、親の求めるいい子であることに努め、家庭から排除されないようにと緊張しているのです。 家庭が、どうしてそのような環境、場面になってしまうのか。一つの要因として剥きだしの感情を子どもにぶつける親の存在が考えられます。幼稚園の先生、保育所の先生であれば、高ぶった負の感情をそのまま子どもにぶっつけることはありません。親の中には、自分の気分で言葉や暴力をも使って子どもを傷つける人がいるのです。 夫婦が不和でお互いに感情をぶつけあい、家の中の雰囲気が張り詰めている場合もあります。家庭でそうした環境、場面が多くなればなるほど家の中の子どもはますます緊張を強いれられことになってしまいます。 心身ともに休養する場としての機能が失われた家庭で生活している子どもたちは、どこかで緊張を解き、思うままに自分を出す場面が必要なのです。それが家庭ではない幼稚園であり、保育所であり、学校などの公の場となり、結果として子どもの行動が公私逆転となってしまうのです。 9・場所をわきまえることを教えるには 場所をわきまえることの出来ない現象を大きく分けて二つに分けて捉えてきました。一つは、公私のけじめがつかずどこまでも私的空間を拡張していくタイプでもう一つは公私が逆転しているタイプです。 前者の場合は、公の空間が、家庭と違うところを丁寧に教えていくことが必要となります。場所をわきまえるとは、状況を見て、周りの人々が不快感を抱かせない行動がとれるということです。 この場面が何を要求されている状況なのかを大人が子どもに教えていくことが当然大切になってきます。他人の気持ちに焦点を当てて、自分の振るまいが、他人にどのような気持ちにさせているかを知ることは自分の行動を振り返りコントロールするきっかけとなります。 子どものいる周りの大人は、そのようなことを子ども達に教える役割を担っていることを自覚しなければならないと思うのです。親の私的空間のみ子どもをとどめておくことは、親もトラブルを抱え込まずに楽な方法かもしれません。しかし、子どもはいつまでも親のもとにいるのではなく、やがて社会の一員となっていくのです。家庭から社会へとスムーズに移行できるように、親も子どもを巡るさまざまなトラブルを引き受ける覚悟を持ち、子どもの社会参加を促していかねばなりません。 後者の場合は、子ども達のために心休まる場所をどこかに確保していくことが必要でしょう。 例えば、教室に集まった子ども達の中に、小競り合いを繰り返している数人の子ども達がいたとします。教師は、「みんな狭いところで、我慢して生活しているのに、我慢するところでは我慢しなくちゃいけないのではないか」と話すでしょう。このようにして、場面によって我慢しなくてはいけないと言うことを子ども達に丁寧に教えていく必要があるのです。(子どもを教育する大人のよくとる手法です。) ただ、我慢することができるのは、我慢して溜まったエネルギーをどこかで発散させる場所が確保されていなければなりません。 先述したように、子ども達は母子分離を果たした後、探索行動を始め、少しずつ社会に参加していくのです。社会に参加することは、緊張をともないます。挫折も繰り返します。そのときに安全地帯になる場所があり、そこでゆっくり休み、挫折も受け止めてもらうことで、また、外に向かって力が沸いてくるのです。家庭がそのような機能を担っています。しかし、こうした機能が低下すれば子ども達の心休まる場所は期待できなくなります。静かに本の読める空間と時間、思いっきり身体を動かし楽しめる空間と時間を確保できる場所が子ども達のために欲しいと思うのです。 場所をわきまえた行動がとれるように、その場が要求していることを丁寧に子ども達に伝えていくことがとても大切です。同時に、子ども側にそうした行動が取れるだけの心のゆとりがあるのかを注意して見ていく必要があります。もしそれがなければ、子ども達のためにゆとりを持つことができるような場所と時間を確保していく必要があると思うのです。 10・「自由遊び」の課題について 仲間に加われない子には、いくつものタイプがあります。タイプによって援助の重点の置き方に違いがあり、どのようなタイプなのかを的確に観察し、その子に合った援助を工夫しなければならないと思うのです。 仲間関係についての援助を行う際の基本は、仲間に加われない理由や背景について把握し、個々の子どもの多様性に応じることだと思っています。援助の具体的な段階では、本人を「支える」他の子どもと「つなげる」環境を「整える」という三種類の対応を考えます。援助より効果的なものにするためには、これらをどのように組み合わせていくかが鍵になってきます。 (イ)「仲間に入れて」と言えないタイプ いわゆる「引っ込み思案」で仲間に加わりたい気持ちはあるのに、なかなか自分から加われない子どもです。この場合、本人を支えることに力を注ぎます。たとえば、日常生活でも、自己表現の力を育てることや緊張感を和らげるような対応を工夫します。また、遊びの場面を想定して「入れて」とか「○○ちゃん、遊ぼう」と言わせたり、遊びのルールに慣れさせたりします。 もう少しで自分から仲間に加われそうな段階になったら、子どもと一緒に集団に近づき、「遊びにいれてくれる?」と言ってつなげる援助が必要です。 これは、声をかけるモデルを親や指導者が示すことにもなるのです。 (ロ)「仲間に入らなくてもいい」というタイプ 表面上は、仲間に加わろうという気持ちがなく、自ら孤立している(ように見える)子どもです。仲間に入って何かをすることが楽しいということが実感できるよう、整える援助に配慮しています。 「仲間に入らなくていい」という気持ちの背後には、過去につらい経験があることが多いのです。「再び傷つくかもしれない」という不安に配慮して親や教師の目の行き届きやすい場面での仲間関係を経験させることから始めているのです。仲間関係の中で傷つくことのないよう、さりげなく大人(親)がそばにいるようにする。また、自己主張が控えめな子と同じグループにしたり、コミュニケーションをあまり必要としない集団での制作や遊びを意図的に取り入れたりします。 (ハ)仲間から受け入れられにくいタイプ 攻撃的な言動(暴言、野卑な言葉)が多かったり、よけいな一言で周囲をしらけさせたりして、孤立しやすい子どもです。 前に述べた(ロ)のタイプになっていく場合もあります。 本人の「周囲を困らせる言動」を少なくするためには身近な大人が積極的にその子と関わって支えるようにしなければなりません。困った言動をしそうになったら衝動を抑えるようさりげなく指示したり、気持ちを別の方向に向けさせたりします。また、その子の良さを見つけ仲間集団に伝えることは、集団に結びつける援助となると思っています。 (ニ)同年齢の子どもと仲間関係を作れない子ども 自分より年齢の下の子、あるいは上の子となら楽しく遊べるのに、同じ年齢の子とは仲間関係を作れないタイプです。 社会性が不足している子や不安感が高い子にとって、同じ年齢の仲間は、対等な関係にあるがため緊張感を強いられる集団となります。下の子であれば何かにつけて優位に立てることが多く、安心して関われます。また、上の子であれば、さまざまな配慮をしてもらえるので、楽な気持ちで関わりを持つことが出来ます。 このタイプの子に対しては、「いつも小さい子(大きい子)とばかり遊んでいないで、たまには同じ(○○ちゃんと)クラスの子と遊びなさい」という働きかけは避けたいものです。 安心できる居場所を失いかえって孤立してしまう場合が多いのです。今関わることのできる仲間を大切にしつつ、同じ年齢の集団に関われるよう(イ)や(ロ)で述べた援助の組み合わせで進めます。 11・「仲間に加われない場面が多い子」という発想 「仲間に加われない子」に共通するのは「社会性の不足」ですが「社会性が不足しているなら、社会性を身につければよい」と単純に言い切ることは出来ません。仲間に加われない子の多くは、社会性が不足しているから仲間に加われず、仲間に加われないから社会性が育たないという悪循環に陥っているのです。そこで発想の転換が必要になってきます。「仲間に加われない子」という捉え方よりも「仲間に加われない場面が多い子」と捕らえる考え方です。どのような場面が仲間に加われないのか、それを克服するにはどのような援助が必要なのか。こういった視点に立てば、具体的な援助のイメージが見えてくると思います。 たとえば、休み時間に、友だちと遊ばない子がいたとします。その子は、常に仲間に加われない子かというと決してそうではありません。教室内で楽しく一冊の絵本(たとえば電車の絵本)を数人で見ている仲間に加わろうとします。その子は乗り物に興味を持っており、仲間に関心を示したわけです。このときに適切な援助が必要であると同時に、効果的といえるのではないでしょうか。ワイワイと元気いっぱいに遊ぶ仲間集団には加わりにくい子であっても環境を変えれば「仲間に加われない子」ではないのです。 文献:金子書房「児童心理」より一部引用 おじいさん先生のページへ戻る |