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元気のない子・元気な子

元気とは、「気」の「元(もと)」と書きます。「気」とは、東洋の独特な観念です。「理」に対していて存在のエネルギー的側面をさしています。構造的な側面を「理」と言われています。

人々は、宇宙にも、人間にも「気」というネルギーが偏在していて、周囲からよい気をたくさん吸収すれば元気になり、悪い気をとりこめば病を得て病気になると考えられてきました。

気はそうした心身状態に影響を与える最大の要素であって、その流れが狂うことを「狂気」と言われています。

気が似通っていると「気が合う」と言われています。

日本語にはそのほかにたくさんの「気」を使うことばがあります。「気を遣う」「気になる」「やる気がしない」「気が散る」「気が滅入る」「気を静める」「気が多い」「気が長い」「気が短い」「気がいい」「気が知れない」「気が注がれる」「気を入れる」「気をもむ」「気をまわす」「気が置けない」「気を悪くする」「気をよくする」「気が詰まる」・・・・。

「気」は、東洋ではこのように、人間の活力を規定するもので、固体に属するのみならず、客観的世界にも属するものと考えられてきました。しかも「気」は心に属するだけでなく身体をもめぐるものであり、身体の有機的関係を媒介するものでありました。「気」は、身体と心をともに活性化するネルギーであり、心と身の状況をつなぐ環のような位置にあると考えられるのです。

元気は、こうした「気」のとらえ方に淵源を持つ観念で、英訳しにくいものです。あえていえば、「spirit」に近いと思います。それゆえ、今日の西洋医学や心理学に慣れ親しんだ発想法では、観念的で理解されにくい傾向があります。しかし「気」をもとにした「元気」という観念は、人間についての新しい考え方と少なくとも二つの点で実は共通しています。

その一つは、人間の活力の源は、人間の側だけに存在しているのではなく、人間の周囲の環境の方にあるという考え方に立っているということです。つまり社会の活力が個人の活力を規定しているという考え方をとっているわけです。この点で極めて現代的な発想なのです。

もう一つは、人間の活力を心身相関的にとらえようとしている点です。活力を心の問題に限定するのではなく、また身体だけの問題にするのでもなく、双方の関係の中で問題にしようとしているのです。この点もまた現代に要請されている視点といえるのです。

前者についていえば、例えば子どもは、家庭の中で親という人間の具体的な態度や振る舞いを通じて大人の元気や大人から子どもに向けられる期待などを感じとり、複雑に影響されながら大きくなるのです。子どもは、親を通じて大人社会のいわば気を感じるといってよいでしょう。しかし、その親自身は豊かで多様な活力と活発な気を発して生活するとは限りません。特に最近はそう思うのです。

最近頻繁に電車に乗る機会を得るようになって、通勤電車にゆられるサラリーマンの顔を見れば多くの人が疲れている感じ(肉体的にも精神的にも)がするのです。

帰宅を急ぐ周りの男性はほとんどがサラリーマン風で新聞雑誌を読んだ後、すぐに居眠りを始めるのはやむを得ないにしても出勤時もこの光景をよく目にします。その姿勢にはやはり疲れがにじみ出ています。外国ではほとんど目にすることのできない光景です。

この人たちは家庭に帰るとみな父親に戻るのだろう。その時は、あの電車の中での顔と違った笑顔や元気な顔を見せるのだろうか。「生きていくことは、こんなにおもしろいし、感動的なことがいっぱいあるんだぞ、おまえもこれからいっぱい感動し、人生を楽しめ」ということを自らの生き方や生きる姿勢、あるいは何気ない雰囲気や態度を子どもに気で伝えているのでしょうか。

日曜日になると、「お父さん疲れているか、起こしちゃだめよ」などと言われている家庭がたくさんあるのではないでしょうか。

今回は、子どもたちの「元気のない子・元気な子」について述べることにいたします。いささかなりとも子育ての参考になれば幸いに思っております。           
                                                          

1・社会で育てる子どもの元気

子どもたちの元気は、子どもたちだけでつくるものではありません。社会の元気が子どもたちに直接、間接に反映するのだという事情は生育環境が大きく変容してきた今日、以前よりもより当てはまるようになっているように思います。

子どもたちの元気は、本来家庭と地域社会、そして組織立てられた教育機関という三つの場で大人になる訓練をして成長します。社会の規範や文化を身につけて社会に適応していく過程を社会化と言うとすれば、子どもの社会化は一次、二次、三次と三つに区分されると思います。

 

一次的社会化のとは

家庭の中で親、兄弟、姉妹の親密な人間関係と配慮を通じて行われる社会化で基本的信頼感や言葉などを身につけるプロセスで最も小さい社会の「集団生活」といえるでしょう。

 

二次的社会化とは

地域の遊び仲間と一緒に遊んだりする中で、遊ぶ力や関わる力、しなやかな身体や初歩的な道徳性、社会性など人間的な基礎力を身につけていくプロセスです。地域社会でのふれあいを通していろいろな初歩的社会性を経験します。

 

三次的社会化とは

文字の読み書きや職業能力など系統的に教えられる中でその力を身につけていくプロセスです。

この三つがうまく分担されている時は、子育てはそんなに難しくありません。特に二次的社会化が豊かであると、一次的社会化や三次的社会化は楽になります。

二次的社会化とは「子育て」ならぬ「子育ち」とでもいえるプロセスです。

これが豊かだと子どもは、たくましく、しっかりと育ちやすいものです。三つの社会化の分担の仕方は歴史的に変化するでしょうが、これまで、社会はさまざまに変化してきていても、子育てを巡る三つの社会化の分担はそれなりにうまく行われてきました。

ところが、現代の社会は、このうちの二次的社会化が急速に貧困になってきている点が特徴的と言えそうです。友だちとの冒険遊びや地域での集団遊びなどの中で人間的な基礎力を切磋琢磨してきたプロセスが急速に消失してきているのです。そのため、二次的社会化の中で身につけてきた諸能力の形成の多くを今は一次的社会化が担わねばならなくなり、家庭の育児項目、課題が急速に拡大しているのです。家庭は、育児にかかわる限り、その力以上のことを期待されるようになってきたのです。

この変化は、家庭の育児を以前よりも難しくしているだけでなく、子どもの育ちの中で家庭の影響の占める割合が急速に増えているという形でも現出しています。だからこそ家庭の活力が子どもの活力に与える影響が大きくなっていると言えるのです。

家庭は今、相当意識的に、子どもたちの活力、元気を育てる配慮をしなければならないと思います。

 

2.自主性を育む「いたずら」

元気なことは、意欲のある子とかやる気のある子と言い換えることができます。意欲ややる気が人に言われたから出てくるのではなく、自分でどんどん自発的に発揮し、挑み、意欲的になっていくための人間的資質を、自主性と呼んでいます。

この自主性が、今は育ちにくくなっているように思います。

年中、年長児で自主性が豊かと目される子は、共通して、1歳前後から始まる探索行動、いわゆる「いたずら」がさかんで、親は、その行動を許し、おおらかに見守っているのです。

「いたずら」行動をいっぱい保障されている子どもたちが、自主性をうまく育んでいるのです。

おそらく、「いたずら」ざかりの時期に、それをできるだけ保障しようとする育児姿勢は、その後の発達段階でも、子どもの意欲や選択を大事にして、それを可能な限り保障しながらしつけていくという態度も生み出していると思います。そうした蓄積が、子どもの意欲や自主性の育ちを支えているようです。つまり、環境刺激が適当にあるということになるのではないでしょうか。そして、その環境刺激や環境の意味作用をよんで、子どもが何かをしようと動き出します。それを見た親や大人は、子どもの意志を尊重して、その活動をもっと大きく展開させてやろうという姿勢をとり始めます。具体的には、温かく見守ってやり,一緒に活動しながらヒントだけを与えようとする。などです。この場合、行動の選択はあくまでも子ども自身がしていることが大事で、大人の方はそれに応答するにとどめなければならないと思います。

「いたずら」行動やその延長の遊びを支えるには、次の行動文法が要求されます。

まず子どもがいたずらしたり遊んだりする。そして、応答的な環境になる。子どもが将棋の指し手になっていて、将棋の駒になっていないという関係が大切なことと思うのです。

 

3・元気の素材を奪っていませんか

子どもの環境は、やがて、そうした環境条件のもとで、子ども自身がさまざまな対象に挑戦していきます。それを達成することによってどんどん活性化されていきます。例えば、身近な木に登るという遊びをしたとします。最初はこわごわ、しかしやがて慣れて平気で登るようになっていきます。するともっと大きな木、登りにくそうな木にも登ってみたくなります。周りに登ってよい木があり、大人が登ってもよいというメッセージを伝えていれば、やがてその子は、そうした木にも登ろうとするようになるでしょう。こうして、子どもには木に登るというしなやかな身体技法と自分は木に登れるという自負(自己への信頼感と期待感)が身についていくのです。

同じように、釘を打つという技法、ケンケンをするという技法,コマを回すという技法等々の技法が身体に刻まれていくと、子どもは、あるシチュエーションが与えられると身体そのものがうずき、その技法を発揮したくなるものなのです。木登りが上手になった子どもは、どの木を見ても登りたくなるし、コマ回しが得意になった子どもは、コマさえあればどこででも回そうとします。サッカーが大好きになった子どもは、ボールさえあれば蹴ろうとします。集団で冒険遊びをするという楽しみを身体で覚えた子どもは、冒険できそうな場所を探し、冒険遊びを展開します。

大事なのは、子どもに自由を与え、自分の気の済むように身体技法を身につけていいのだという環境を大人が与え続けていくことでしょう。

数十年前まではそういう環境が豊かにありました。子どもは家の周りのいわば子ども用の牧場で、放し飼いにされて育ったようなものでした。しかし、現在はそうした環境が悲しいまでに少なくなっています。

怪我は確かに心配です。しかし、小さい怪我を繰り返すことによって、人間は怪我をしなくなる力を身につけるようになるのではないでしょうか。子どもの元気の素材を、大人が知らず知らずのうちに奪っているように思えます。

子どもの元気は、また、毎日の生活が、小さな希望に満ちていることによってももたらされます。明日こんなことをして遊ぼうという小さな希望、つまり生活の「めど」と言えるのです。その「めど」を持つ生活をどう作らせるか、夢を持てなくなったという今の子どもの課題として大きいですがそれが子どもたちの元気に極めて関連していると思います。

 

 4・子供の元気を阻害するもの

一塊になった子どもたちが、土曜日や日曜日に公園や町々の広場で元気に外を走り回る光景は、子どもの成長期に欠かせないばかりかこれらの情景は社会の健全性を反映する鏡でもあります。

今日の子ども達に、このような仲間との外遊びが減少した背景には都市化にともなう「遊びの空間」と「遊ぶ仲間」が欠如していることが挙げられます。さらに変質者の出没と子どもたちが安心して戸外で遊べなくなる事態も全国で発生しています。

このような外遊びの減少は、子どもたちの活動力や行動力を奪い、結果として元気のない子どもたちを多く生み出す要因となっているように思うのです。

体力面では走、跳、投などの基礎的な運動能力が低下傾向にあります。

一方、子どもたちが一人前になって社会に巣立っていくためには、親や親戚などから生活様式や行動様式、価値観、慣習等のしつけを受け、「社会化」がなされる必要があります。しかしながら、これまで親や大人が必要以上に、子ども達に一切合財を指示することを良しとし、大人の考えたとおりに子どもを操りすぎた結果が元気のない子どもを生み出す要因になってはいないでしょうか。

すなわち、子どもの自発的な行動や考えを引き出す前に指示が飛び、子

どもが、自分で考え行動する術を身につけないまま、大人が考える路線をひたすら走らせてきたことも大きな要因と考えられます。

「元気のある子ども」とは、健康そうで、声が大きく、自分を主張できる子どもを指すのではありません。新しい事柄に対して興味や関心を示し、好奇心が旺盛で、自分がしたいと思うことに計画性を持って、自分で出来る子どもと言っていいのではないでしょうか。つまり、主体性を持ち積極的に事に当たるということではないでしょうか。                                         

 

5・子どもの元気と充実感

日々の暮らしに「充実感」を感じることもなく過ごしている子どもの数は決して少なくありません。子どもたちの行動傾向は、積極的に主体性を持って行動できることと何事にも無気力、無関心、無感動と分化されます。遊びであれ、音楽であれ、スポーツであれ、一生懸命取り組んでいる子どもと、無気力、無関心、無感動な子どもの違いは、日常生活においてどれだけ「充実感」を感じ取っているかの差と考えることができます。

子どもたちは、親戚、幼稚園や保育所の先生、地域の人々から誉められ、認められることにより、満ち足りた気分としての充実感を感じているのです。地域の人たちとの関わりが多い子どもほど、家庭や地域で積極的に活動をしたいとする者が多く、また、日常生活の充実感・充足感が高い傾向があるのです。この充実感は、物やお金からくる満足感ではありません。基本的欲求としての親や他者からの承認を受けたいとする欲求です。子どもが行ったある行為に対して、大人から誉め言葉をかけられて元気にならない子どもはいません。この欲求が満たされることにより、自尊感情を高め、自信や誇りとなり、新しいことに対する挑戦意欲や積極的な行動意欲につながっていくと考えられます。

もう一つは、これまで、子どもたちがどれだけ心を揺さぶられる豊かな体験を積み、体験したことがどれだけ内面化されているかの差だと思われます。体験を積むということは、自分自身と真正面から向かい合いながら社会の人々や自然などとの直接的な関わりを数多く持っていることにほかなりません。

このように、家庭や地域を含めた社会全体が、子どもたちが充実感を持って仲間と関わり合うことのできる多様な体験活動を数多く提供し、その充実を図っていくことがとりわけ重要と言えるのです。

 

6・子どもの「元気」は家庭が育てるもの

子どもが「元気である」ということは、子ども本来の物自由な好奇心や行動力があるということです。また他の人に働きかけたり折り合いをつけたりしてつながっていくことや集団のルールを守っていくことなどソーシャルスキル、さらに生活していく上のさまざまな困難を乗り越えていく力も合わせ持って「元気」といえるのではないでしょうか。

家庭は、子どもの「元気」を育てる前に、「愛情」を注ぎ、「社会化」を図っていく場所です。つまり、「愛情」で情緒を安定させ、さらにさまざまなしつけを通して「社会化」していく場所です。そのときに、リズムとメリハリのある家庭であることが子どもの「元気」を育てるために大切になってくるのです。

 

(イ)朝がつらい子ども達

登園、登校してまもなく、ぼんやりとしてしゃきっとしていない子どもが多いと聞きます。また、「疲れた」「しんどい」を口癖のように訴える子どもも少なくありません。そのような子に、日常の様子を尋ねて見ると、起床時刻や就寝時刻が遅く、食欲がないために朝食をほとんど摂らない子ども達が多いということです。事情はさまざまです。家族が夜遅くまで仕事をしているために夕食が日常的に遅い場合、大人と夜遅くまで一緒にテレビを見ていたり、ゲームをしていたりして就寝が遅くなる場合、あるいは塾通いで帰宅が九時を過ぎ、就寝が遅くなる場合といろいろな環境の中の子どもがいます。その結果、起床時刻が遅くなり、食欲がないまま朝食をとるため、調子が悪いまま登園、登校しているのです。登園、登校する前の時間的な余裕がないため、家族は子どもを急がしたり、結果的に準備を手伝ってしまったりと、過保護、過干渉の子育てになってしまうのです。

大人社会の変化によって子どもの生活リズムも影響を受けている場合が多いです。大人は、もっと子ども達の生活リズムを大切にしなければいけないと思います。

子供たちは生活リズムの乱れによって、元気や意欲に大きな影響を受けやすいのです。

 

(ロ)規則正しいリズムある生活が子どもの情緒の安定につながる

日々の子ども達の成長にとって、リズムよい生活の中で暮らすことは、とても大切なことです。なぜなら、安定した情緒と自立心を育むためには、生活の基礎となるリズムが不可欠だからです。たとえば登園、登校前の時間は次のようになります。

○一定の時刻に(自分で)起きる。

○家族に「おはよう」と挨拶をする。

○朝食前に洗顔、着替え、布団やベッドの整頓等をする。

○朝食を摂る

○トイレ、身支度、登園、登校の準備をする。

○「いってきます」の挨拶をして出発する。

判で押したような生活を毎日することは出来ないにしても、子どもの年齢が進めば活動の内容も変化してきます。例えば食器を洗う、玄関の靴を整理、整頓するなどですがこのようなことが一定のリズムで行われる時は、家族の「早く!」「さっさとしなさい!」の声がけも少なくなるでしょうし、子どもの次に行うことを体内時計のように覚えているために迷いなく行動が出来るようになります。そして一定の時刻に起きるために、十分な睡眠時間(8〜9時間)を保障することを考えれば、就寝時間もひとりでに決まってきます。

 

(ハ)家族の温かい励ましで生活リズムは身につきます

就寝前に、決まって本の読み聞かせをする保護者がいます。父母のどちらかが、子ども達の寝る前の15分程度を本の読み聞かせに当てているのです。

幼児の頃から小学校4、5年生まで読み聞かせが続くうちに、「十五少年漂流記」、「小公女」等の大作も読んであげることになるでしょう。時には、読んでいる方が先に寝てしまうときもありますが子どもとの触れ合いの大切な一時と言えるのではないでしょうか。

読書という生涯の楽しみを持った子どもに育つと思っています。

幼い頃に読んでもらった感動的な本は大人になっても忘れることのない強い印象をいつまでも持つものです。

生活リズムを築くためには、機械的に行うのではなく、家族の温かいまなざしが必要と言えます。

心の通う挨拶や寝る前の読み聞かせ、一緒に食事をするときの楽しい会話、時には幼稚園や学校の友達関係の楽しかった事、つらかった事,悔しかった事の話もできる場を大切にしたいものです。

家族の触れ合いを共に刻んでいくとき、子どもたちの情緒は安定するのです。

子育ては人生のある時期の限定的なものです。「今、ここで」しかできないのが子育てです。子育ての時期は子どものリズムを中心にした家庭であってよいのではないでしょうか。

 

(ニ)家庭生活のメリハリを大切に

日常の生活が同じリズムを繰り返しくりかえし刻んでいく事はとても大事なことです。子ども達は、繰り返すことで今日が明日につながっていくことを実感していきます。規則正しい生活リズムとともに、日常生活の彩りある四季折々の行事も大切にして、子どもの夢を育み出し、生き生きとした家庭生活を築いていきたいものです。

○お正月やお盆の家庭行事

○お誕生日(家族それぞれの)

○節分、七夕、母の日、父の日、クリスマス、大晦日、正月          

○進級、入学、入園、卒業

○こどもの日やひな祭り、敬老の日

○その他、家族旅行や食事会                

これらの家庭行事に子どもたちを計画の段階から積極的に参加させ、成長の節目を確認していくのであって、毎日がお祭り騒ぎである必要はありません。むしろ、淡々と日常生活を刻んでいく中でこれらの家庭行事がより家庭の絆を強め、子どもたちの元気を養っていくのではないでしょうか。

ある保護者は、毎年の誕生日に同じ場所で子どもを写真に写し、その成長を確かめ、子どもと共に喜んでいるそうです。また、ある家庭では、卒業や進級の時には、お赤飯を炊いて、子どもの成長が家族の喜びであることを確かめ合っているそうです。年に一回の旅行のための貯金箱をお茶の間に用意し、家族で行き先や交通手段を話し合うのが何より楽しいと聞いています。

 

(ホ)発達課題を乗り越える子どもに

子どもたちは、その成長過程の中で、発達したり、乗り越えていったりしなければならない発達課題があります。

幼稚園児、小学生児童の時期には、「規範意識(しつけ、ルール)と「社会性(人間関係・感情)」を身につけることが課題だと思います。日常生活の中で多種多様の経験をしたり、さまざまな課題を解決したりしていく中で社会の中で暮らしていくための基本的なルールを獲得し、生きるエネルギーのもとである人間関係の基礎づくりと豊かな感情体験をしていくのです。

家庭の中で「リズム」と「減り張り」のある日常生活を積み上げていくことが、社会につながっていく「ルール」を身につけ、人としての豊かな「感情」を耕していくことになると考えます。時間と物は有限であることを実感させ、今この一時を喜びを持って生きることを教えていくのが家庭であると思っています。

                         

7・子どもと砂場

(イ)砂場の歴史

「砂や泥まみれで遊ぶのは、子ども時代の特権である」これは、アメリカで初めて砂場をつくることに貢献した一人、ケイト・ウェルズの言葉です。今からおよそ百二十年前の出来事でした。ボストンのスラム街に初めて作られたこの砂場は、それまで行く当てもなくさまよい,喧嘩や暴力などに明け暮れていた子どもたちの心をつかんだのです。大きな砂場で一日中遊んだ子どもたちは心から満足して家路につき、誰の目にもこの砂場である遊び場の価値は明らかでした。砂場はすぐにボストン中に広まり、やがてブランコや回旋塔,球技ができる広場を伴なった遊び場の設備運動、いわゆる全米プレイグランド・ムーブメントへと発展していきました。

このアメリカの砂場のルーツは、もう少し時代を遡ったドイツの遊び場に作られた砂場に求められます。

1860年代、ドクター・シュレーバーという人物が、子どもたちが「軟弱」になってきたことを憂い、子どもの心身を鍛え直す場所の設置を訴えました。

当時のドイツでは、中流以上の子ども達はあまり外に出ない不健康な生活を送っていました。また、都市化の進行とともに身近な空き地が減少し、路上で遊ぶ子ども達が辻馬車にはねられて怪我をすることが頻繁でした。一方、公園などでは、どちらかといえば大人向けの装飾に過ぎるものであり、決して子どものためにはなっていませんでした。「子どもの居場所づくりが必要だ」というのが彼の主張でした。もっともこのシュレーバーは、志半ばにして不慮の死を遂げたことから、その仕事は、彼の後継者達が引き継ぐこととなりました。       文献:金子書房:「児童心理」より引用

 

(ロ)大人の管理下におかれる遊び

「子ども時代の特権」とまでいわれた、砂や泥遊びといった遊びは、今日どのような状況にあるのでしょうか。昨今の団子作りの流行を見る限り、今なお子ども達はその特権を行使しているようです。しかし、現実は、必ずしもそうとは言えないようです。例えば、砂場が置かれている状況を見ると、極めて厳しい状況にあるように思います。

犬や猫による砂場の汚染,ガラスやタバコ等危険物の混入によって、親が子どもを砂場から遠ざける傾向が強まっているからです。そのこと自体は理解できます。しかし、問題がこのような衛生・安全に関することであれば何らかの対策を講ずることは可能ではないでしょうか。その背後には、一つの違った要因があるように思うのです。

「砂や泥にまみれて遊ぶことは等何の意味もない。子どもにはもっとふさわしい遊びが他にある」という親(大人)の「遊び観」が根強くあるように思うのです。

比較的衛生管理の行き届いた幼稚園、保育所の一部でさえも園児服や園舎が汚れると言う理由から砂、泥遊びが禁止されているところもあるように聞いています。

子どもたちにとって最もふさわしいと思われてきた遊びや遊び場が、大人たちの勝手な思いによって簡単に否定され、子どもたちから取り上げられようとしています。それは、子どもの遊びが大人達の管理下におかれるようになったからと言えるでしょう。遊び場作りの歴史において形成されてきた子ども観,遊び観(子どもの自由で自発的な遊びを見守る大切さ)を放棄するものとして「愛という迫害」として疑問を感じます。

このような遊びが子どもの世界から消えてしまうと子どもの元気が次第にしぼんでいくのではないでしょうか。

 

(ハ)元気の源となる直接体験

砂や泥遊びを否定し禁止するというのは、子どもの主体性を無視するものとして問題であるばかりでなく、子どもにとっての発達的課題を達成していくという点から、もう一つの大きな問題を含んでいると思われます。それは、子どもたちが置かれているバーチャル的知覚を主とする遊びや生活、それに伴う身体能力の不自由さといった観点からの問題意識です。砂場での子ども達の遊びをみていると、砂のざらつき、湿り具合、上部と下部の温度の違い、砂山の高さと大きさ、穴の大きさや溝の幅といったいろいろなことを子どもたちは、手のひら、足の裏、指先、そして腕や膝で感じ取りその特徴を遊びの発展につないでいるのです。

このような自分自身の体を通した直接的な知覚とそれに基づく行動は、子どもの感覚を研ぎ澄まし、身の回りのいろいろな世界に対する好奇心を広げていくことにつながると思います。周囲の世界が面白くてしょうがないという子どもは、その豊かな感性によってますます活動意欲を大きくしていきます。これこそが「子どもの元気の源」ではないでしょうか。

 

8・食がつくる「元気のモト」

健康な生活を送るための基本は「食」である。と捉えることができます。子どもたちの心身の健康は、毎日の食事を通しての教育や適正な環境づくりにより保たれていると考えられます。しかし、最近では、子ども達(どうかすると大人も)の食生活の中で望ましい食習慣が失われつつあるといわれています。

 

(イ)朝食欠食は問題です

食事は一日の生活の中で営まれているもので、単独で存在するものではありません。したがって、子どもの生活リズムに規則性がないと食事も規則的に量、質ともに充実した形でとることはできません。近年、社会状況の変化や子ども自身の生活の変化からその規則性は崩れているようです。

平成十三年の国民栄養調査の結果、朝食欠食率は男女ともに十五歳から十九歳で高くなり、最も多い年齢階級は男女とも二十歳です。

食習慣は、できるだけ早い時期(幼児期)に確立しおかないと将来の健康に関わってくるのです。

朝食は前日の夕食からの空腹を絶ち、エネルギーを補給することにより活動を円滑に開始するいわゆるスターターの役目を持っています。

朝食の欠食の回数が多いほど疲れやすい。怒りやすい、腹痛や頭痛などの健康不良を訴えることがわかっています。(厚生労働省調査)

朝食をとることにより、血糖値が上昇して脳にエネルギー(グルコース)が供給され、午前中の活動力、集中力が増強されます。朝食をとる行為は生活のリズムメーカーの役割を果たし、健康を保つと考えられています。

 

(ロ)朝食を食べない理由は?

朝食欠食の理由は「食欲がない」が最も多く、続いて「朝起きるのが遅くて食べる時間がない」という理由で全体の70パーセントを占めているそうです。(厚生労働省国民栄養調査より)

欠食はしていなくても食欲のない子どもの割合はきわめて高く、食べていても十分な栄養摂取量であるかどうか疑問です。

○夜食を遅くとったために朝食時に空腹感がない生理的な減少。

○生活が夜型に移行して朝早く起きられない生活リズムの変化。

○出かける準備で忙しく、時間的な余裕がない一時的多忙な生活。

等が主な理由になっています。多様化した生活の中で、リズムメーカーである朝食をしっかり食べられるようにするには、起床時刻が朝食摂取に十分な時間であるようにしなければなりません。また、起床時刻を守るためには、夜の就寝時刻を早めなければならないでしょう。そのためには、子どもの生活を見直し、塾や習い事へ行く場合の夕食の設定やおやつの時刻や与える量など、それぞれの子どもに合った対応が必要と言えるでしょう。

朝食欠食のその他の理由に,「太りたくない」「食事が用意されていない」というのもあります。生活のリズムだけでなく、子どもの健康に対する意識の変化や保護者の意識の低下も問題になっています。

小学生では、「太りたくないから朝食を摂らない」という児童はまだまだ低いのですが「やせたい」と思う志向は既に現れているのです。

「やせ志向」が行き過ぎると過度のダイエットの結果、低栄養になり、健康を損ねることになりかねません。食欲の制御がきかなくなると、拒食や過食に陥ることもあるのです。

したがって、自分の適正な体重はどのくらいなのか、きちんと把握できるような家庭での健康教育が必要になってくるのです。

 

(ハ)共食(きょうしょく)が子どもを守る

家族や仲間など誰かと食事を共にすることを「共食(きょうしょく)」と言います。

「共食」は食事本来の目的の一つです。ところが現代では父親の多忙な仕事、母親の就業、子どもの習い事など家族が別々の生活をするようになって食事を一緒にすることよりも個人の行動が優先されるようになっています。これらの生活環境から独りで食べる「孤食」を生むようになってきたと考えられます。子どもの孤食は生活リズムの乱れや家族関係の希薄も関係し、「食」に対する意識、価値観の変化があると思われます。子どもの心身の健康のためにも「共食」の意義を見直す必要があると思います。

規則正しい食生活の基本を身につけることは、食に対する正しい知識の習得につながることであって、食生活の乱れは生活リズムや栄養のバランスを悪化させ、健康を損ねる要因となりかねません。

子どもたちが元気に生活するためには、朝あるいは夕食時に家族のものが子どもと一緒に食事をするのが望ましいわけです。この食習慣によって、子どもの顔色や食欲の状況、食事の中での会話で健康状態を確認することができるのです。

子どもにとっても家族との食事で「食」に対する関心や満足感も高まると考えられます。自分から自分の食生活について見直す能力が身につくかどうかは保護者の意識に大きく左右されるといっても言い過ぎではありません。望ましい食習慣を身につけるには子どもは、できるだけ小さいころから、子どもだけでなく、周囲の大人も含めて食の教育や体験学習などで「食」に対する関心と意識を高め、さまざまな取り組みをしなければならないと思うのです。

 

9・元気を育てるおけいこ

「子どもの声が弾んでいる」「子どもの体がリラックスして軽やかに見える」こんな子どもの姿をおけいこの最中に見出すことができたら、そのおけいこは「元気を育てるおけいこ」であると言えるでしょう。子どもの声が弾んでいるという様子は、子どもが好き勝手に騒いでいることとは違います。子どもがこれから行うおけいこがどのようなものであるかがよくわかっていて,自分の中にそれについての考えがどんどん湧き出て,言葉や行動になって溢れ出している様子を指すものと思っています。

 おけいことして取り上げられている事柄に関心を抱き、興味を持ち、自分にやりたいと思える事が感じられる状態になるからおけいこが楽しくなるものと捉えています。その中で、自分のアイデアが生かせる状態になってくると湧き出る思いを友だちや親,あるいは先生に伝えたいという意欲に駆られ、思わず声が弾み「元気のあるおけいこ」となるのではないでしょうか。

 おけいこの中で「正解」を見つけ出して答えなければならないという強い責任感を持つ様子を決して指すものではありません。自分なりに把握したおけいこの目標に向けて、自分の力を精一杯駆使して考えたり活動したりして頑張れば、それを自分のおけいこの成果として受け止めてもらえるという安心感から生まれる姿なのです。

自分の考えたことを形に表現すれば、その意図を汲み取ろうとしてくれる友達や親そして先生がいます。どのような表現であっても、それが自分で精一杯努力した成果であれば、その中から自分らしさを見つけて認めてくれる人間がいるのです。ですから、楽な気持ちで自分の思いを声にして発言、発表し、活動に取り組むことができるのであって、これがリラックスした様子に見えるのです。

 

10・教室で上達を確認しあう「おけいこ」

「元気」とは、心身の活動の源となる力や、体の調子が良く、健康であることと考えています。「元気」は、活動の意欲の元になったり、意欲を持続するための活力になったりする潤滑油の役割をするものと思っています。

その活力を発揮する一つとして「上達を確認し合う」行為は非常に効果的だと思っています。精一杯努力した成果であれば、一人ひとりのプリントに朱色で二重丸をつけ、Aを大きく書いてあげるのも成果のメッセージであって、時と場合によっては努力した成果を形にして認めてあげている一つの方法であり、手段になっていると思うのです。

集団の中で最近の子どもたちは、物事に取り組む時、結果や出来栄えを強く意識して「できる−できない」だけで判断する傾向がよく見られます。       失敗を避けようとするために、自分から人と関わることを避けようとする子どももいます。また、周囲の友だちを意識して、取り組みに消極的になる子どももいます。

自分に自信がなく、他人からの評価に敏感で、傷つきやすく、他人の目を過剰に気にする等、緊張して「おけいこ」をしている面を持っているからではないでしょうか。

その意味から、今の子どもたちの実態に応じて、子どもが他人の目を過剰に気にすることなく、自分の活動の源となる自分なりの納得のいく「上達」を確認し、実感することができれば、自信を持って元気よく自分の力を発揮できるようになるのではないでしょうか。

○子どもが自分自身の上達を実感すること

○子どもたち一人ひとりが安心して自分らしさを発揮できるよう多少の失敗やつまずきが許される「おけいこ」雰囲気があること

○自分の良さを見つけ、自分を好きになること、そのために人間関係を学び合う場を意図的に作りだす(集団の場でのおけいこ)

これら三つの柱が大切だと思います。特に一つ目の「子どもが自分自身の上達を実感すること」は集団の中でのおけいこでなければ果たすことのできない一つと思っています。

 

11・意欲を高めるカードやボード(黒板)の活用

プリントのおけいこに入る前に、導入問題として、カードやパネルを頻繁に使うように心がけています。つまり、集団の中で自分で解き、それが出来たと実感できる問題解決的学習を取り入れ,一人ひとりの子どもたちに自信を持たせるようにしています。この後、類題のプリント教材に取り組ませ問題にチャレンジすると子どもたちは、自ら成し遂げた「満足感」「成就感」を確認します。このようにして繰り返されるおけいこで「できそう−できた−楽しい−次は」のサイクルを意識して取り組むようになるのです。慣れてくると個人ごとに「努力しなければならない」という意識が集団の中で自分自身に沸いてきます。これがおけいこへの「元気」と思っています。

 

12・子どもの「疲れる生活」

「子どもは風の子」といった表現にみられる「子どもは元気」というイメージはすでに過去の言葉となったような気持ちになる時があります。

 本来、子どもはさまざまな面への成長に向かうエネルギーに満ちた存在であり、成熟のピークを過ぎた大人よりもはるかに元気なはずです。

 ところが、肩こり、低体温、成人病(生活習慣病)予備軍のような状態の子どもは最近では珍しくありません。身体に現れなくとも「うるさい」「だるい」「しんどい」を頻繁に口にする子どもは、いったいどこでエネルギーを使い果たしているのだろうと思う時があります。

 そのような子どもの場合、まず検討するのは休息や食事に関する生活の問題ではないでしょうか。夜型生活で十分な休息がとれないようでは、疲れが取れないのは当然至極のことです。夜食や間食、欠食といった不規則な食事習慣も体内リズムを狂わせて朝の覚醒に影響し、だるさや頭痛のもとになります。子どもに生活の矯正を求めることは、モデルとなる親自身の生活習慣や態度の見直しが必要であることからなかなか解決しにくい問題だと思います。

 

(イ)疲れる子どもはストレスに脆弱?

人間関係がギクシャクしている子どもは、葛藤状況を避けるために自分の感情や意志を表明できず、ストレスをどんどん溜め込んでいきます。溜め込んでいくためにはたいへんなエネルギーを必要とします。このような疲労状態は大人にもよく見られることです。子どもは、大人より解消に手間がかかります。

まず人間関係を破壊せずに自分を出すコミュニケーション能力が大人に比べて拙いのです。そのため、溜めやすく、発散しにくいといえるのです。

大人は飲酒や趣味といったいろいろな発散の方法が取れますが子どもは発散する手段が極めて少ないのです。仲間達との遊びは効果的なストレス発散法といえるでしょう。仲間との人間関係がうまくいっていない場合は、この方法は有効とは言い難いです。

 

(ロ)安心できる関係の経験

子どもたちが良好な人間関係を持てるようになるには、どうしたらよいでしょう。

 安心して人と接することができるようになるためには、「否定的な感情を伝えても許されるし、それを理解してもらえる人がいる」と感じられる経験が必要です。また、疲れをもたらすストレスへの対処法を身につけることも有効です。

 多くの刺激にさらされ心休まる時間を持ちにくい環境や、複雑化する人間関係は、大人だけの問題ではありません。いつも疲れた顔をしているというのは、言動で自分の辛さを訴えられない子どもの貴重で重要なサインといえるでしょう。私たち大人は、子どもたちのより良い成長を見守る者として、こうした子どものサインに気づくよう普段の様子を観察し、配慮してあげる必要があります。

 

13・気の力とは

「気の力」とは何も神秘的なものではありません。通常の「気力」と言う言葉に言い換えることができるでしょう。別の類似語として使われるのは「やる気」になります。心理学用語に当てはめるとすれば、「動機づけ」に相当します。

 動機づけとは行動を引き起こし、継続させるメカニズムに関する心理学です。行動を引き起こすのは、欲求(動機)があり、それを満たしてくれる目標があればその目標に向かって行動が開始されることになります。

マラソン(長距離走行)を想像して見ると、どうしても走り抜きたいという

欲求(動機)があってそれを満たしてくれる目標があれば、その目標に向かって行動が開始されることになります。どうしても走りぬきたいと言う欲求があって、ゴールを目指すのは、動機づけの典型的な例といえます。「走り抜きたい」は動機(欲求)であり、ゴールは目標になります。途中で放棄しないで長距離を走り抜くという行動は、どうしても走り抜きたいという動機が第一に必要なことであり、もう一つは自分の実力に見合った距離の目標があることです。いきなりマラソンという距離の目標では、走ろうという動機がいかに強くてもやろうとはしないでしょう。目標は、近いものほど動機づけを強めます(百メートル競走なら誰でもやろうとする)。

 気力は動機づけに関わる言葉であるにしても、動機の強さが強いことでしょうか。目標が適切であることでしょうか。どうやらすこし違うように思います。むしろ行動が容易に達成できないときに使われるように思われます。動機が強くなければ(やる気がなければ)気力は問題になりませんが動機が強いにもかかわらず、自分が立てた目標に到達するのが困難なときに使われる言葉でしょう。このような時に「気力で頑張った」と言っています。これにはどのような条件が働いているのでしょうか。まず動機が強いことが必要で、次に目標の価値が高いことだと思います。最後の競技だから走り抜きたい、賞品がもらえるから走り抜きたい、優勝が目前だから走り抜きたい等々がよい例です。このほかに考えられることは、人間関係です。駅伝などでは仲間に対する責任感があり、あるいは、仲間や沿道の応援でしょう。このような社会的な支援は動機づけにとって欠かせないものです。

 このように気力は、目標達成が容易でない時に使われる言葉ですがこのような事態に使われるもう一つの言葉に「意志の強さ」があります。

 

14・気の鍛錬

気は誰にでも自然に与えられているものであると考えられます。しかし修練によって実現するものでもあります。いざという時に気力を発揮できるように、気を練っておく必要があると言うことです。

気を練るとはどういうことでしょうか。簡潔にいうと「体力」と言うことになります。気は身体に根ざしているからです。しかしここで言う体力は筋肉力でなく集中的に発揮できる力のことです。このような力はリラックスした体から出すことができます。したがって気を練るための体の修練はリラックス(筋弛緩)の修練になります。どんな事態のときでもリラックスを維持し必要なときに力を集中して出すことができるようにすることです。このような力の発揮の要領は、たとえば太極拳の発気の訓練に見られます。

次に言えることは忍耐力(我慢力)の訓練です。

フラストレーションやストレスの事態において,キレないでいられるということです。気力は忍耐力なしでは成り立ちません。生活や教育の過程の中で我慢することを繰り返し、経験を積み重ねて忍耐力(我慢力)は培われるものと思います。

私たち東洋人は、自然界と人間界に偏在している「気」によって生かされていると考える文化の中で生活しています。気を理屈で認めようと認めまいと「気」に関わる言葉を数多く使って生活をしています。「気が晴れる」「気がめいる」「気が強い」「気が弱い」「気を配る」「機を合わせる」などです。「気の力」にもっと関心を持ってよい言葉ではないでしょうか。


       引用文献:「児童心理」金子書房出版
       参考文献:「子供のパーソナリティと社会性の発達」北大路書房2000


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