おじいさん先生のページ(3)

おじいさん先生のページへ戻る

自分で判断する力を育てる

 一、二歳の子どもと母親の関わりを観察すると、子どもが自分の思いを親に強く表現している状況にしばしば出会うことがあります。母親が手を引いて連れて行こうとすると、そっちじゃなくてあっちへ行きたいと母親の手を強く引き戻している行動、また、自分でやろうとしていることに親が手を出そうとする様子、その手を何度も振り払って自らやろうとする子どもの態度、親の手を借りながら「もっかい(もう一回)、もっかい(もう一回)」と夢中になって何度も何度もスベリ台をすべる子などがいて、いずれの子にも母親とは異なる自分の意図や欲求を表現し、実現させようとする強い意志力を感じます。

人は生まれつき、環境とうまく関わり、対処したいという動機づけを持っていると心理学者White,R.W氏は述べています。生後一、二年で自分の意図や欲求を表現して実現しようとする幼児の姿に自分で判断する力の萌芽を見ることが出来ます。

今日、教育、保育の場において、「生きる力をはぐくむ教育」が基本的な教育目標となっています。「生きる力」とは変化の激しい社会に生きる力といわれ

@      自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、判断する力

A      正義感や倫理観等の豊かな人間性

B      健康や体力等を含む力                         

であり、自分で判断する力はこのような生きる力の一要素として位置づけられているのです。                            

ところで「自分で判断する力」という言葉にはいくつかの要素が含まれているように思います。一つ目は「自分で」という主体性や自発性の面、二つ目は課題を見つけ、考え、判断するという知的発達の面,三つ目は社会や他人との関係において、「適切に判断する」という社会道徳的面ではないでしょうか。

それぞれの面は相互に影響しあいながら発達していくと考えられます。

今回は、「自分で判断する力を育てる」について述べてみます。

           ごこう幼児教室/御幸 照美

1・自己決定への動機づけと人間関係

 心理学の領域では自ら判断する力の主体性や自発性の側面、すなわち自己決定は内発的動機づけの分野で古くから研究されてきました。内発的動機づけ理論では、人間には本来自己決定への志向性があることを前提に、どの様な報酬が動機づけを高めたり、低めたりするのかなどの研究が蓄積されてきました。内発的に動機づけられた行動とは、活動それ自体に対する興味によってのみ動機づけられている行動を言います。課題を遂行し、習得し、成就することそのものが報酬であると考えられます。

他人からの評価で、能力に対する誉め言葉などについては内発的動機づけを高めることができるのです。

有能感や自己決定感の形成には子どもの身近にいる人達が子どもの主体的行動そのものやその成功・失敗という結果に対してどの様に関わるかが重要な問題になってくると思います。

有能感や自己決定感とそれに基づく内発的動機づけは、個人の閉じられた世界で発達するのではなく、親や周囲の人々、友達との関わりや関係性の中で発達するのです。                      

 

2・自ら判断できない子・判断が適切でない子

 多くの子どもは、生活や遊びの場で自ら考え、判断し、主体的に行動しているわけですが近年、幼稚園という遊び環境で遊べない子どもが多いと聞いています。

幼児期は、自由な空間と時間、遊びの素材となるものがあり、見守る人やともに遊ぶ相手がいれば自然に遊び出せる時期です。ときに真剣に、ときに楽しく、遊び込める時期です。しかし、自らの遊びを選択できず、フラフラしている子ども、先生から遊びを提案され、決めてもらえば遊ぶが、自ら主体的に遊ぼうとしない子どもがいるそうです。また、自分のしたいことがはっきりしていて主体的に判断していくが、それが他人の意図や欲求に反することでも自分勝手に行動してしまう子どももいるそうです。

                                 

3・自分で遊びを見つけられない子

入園当初から幼稚園内で一人でいることが多く、友達と遊ばず、フラフラと歩き回っている時間が多く、先生はその子に園庭の砂場に出て料理ごっこに誘って見ました。その子は、喜んで泥をご飯に、草花をおかずに見立ててお皿に並べ始めました。遊びながら先生は他の園児の援助のために少し離れるとすぐについて来たり、先生の動きを目で追ったりする様子が良く見られたそうです。一人になるとつまらなそうに穴に水を入れ続けました。先生が「ご飯を作っているの?」と聞くと、「ウン、水入れるだけ。だって、先生やんないんだもん」と言う。

この子は、先生と話している時は、とても嬉しそうにしているが、先生がその場を離れると目で追いながらも引き止めようとはしませんでした。

先生が水道の所へ行くと、その子はついて行くこともありますが先生に何かを話しかけることはせず、少し離れて手を洗いだします。その後も先生をチラチラ目で追っています。先生に遊びを提案されると楽しそうに遊びますが自らの欲求や意図のもとに遊びを選択し、活動する姿は見られませんでした。これは、ある子の幼稚園生活の様子です。

このように自ら遊びを決め、行動していくことはせず、園庭、保育室などあちこちをフラフラ歩き回り、誰からか遊びを仕掛けてもらうのを求めているようでした。他の園児の遊びを遠くから見ていることが多く、自ら遊びを選択できず、他の園児の遊びに入るきっかけも自ら作りにくいようでした。もちろん、他の園児の遊びを見るということも集団への参加の一形態ですが先生にとってこの子に対する印象は「考えや気持ちが理解しにくい」あるいは「まだ幼い面があるのだろうか」というものでした。これまでの生活の過程の中で適切な援助のもと、自分で判断し、それを表現する経験を積み上げてこなかったのではないか。自分で判断し、自信を持って表現していくには親や先生、友達のきめの細かい援助が今後も必要であると考えたそうです。

自分で判断する力は、他人との関係性で最初は温かいまなざしや励まし、選択肢や選択基準を示してあげ、一緒に考えたり、選択したことを誉めてあげたりを繰り返しながら自ら判断する力や自己決定感が育まれていくと考えられます。

一方、他方で判断や意思決定はできるけれども、その判断や意思決定のあり方が他人の意図や欲求を無視したもので、それに反するような傾向を示す子どもがいます。

                        

4・適切な判断の出来ない子

二人の園児が積み木コーナーでコの字型に並べて積み木遊びをしています。並べ終わって一人の子が「お料理作るもの、取って来て」とままごとコーナーから食器やフライパンを持って来るように言います。この子は、周囲の友達によく命令口調で指示し、それをしないとすごい剣幕でわめきたてるようなところがありました。言われた通りに別の子がままごとコーナーへ行き、すでにそこで遊んでいた他の子に「貸して」と言うけれども「今、使っているからだめ」と言われてしまう。その子はしぶしぶ積み木コーナーに戻り、「だめだって」というと命令をした子はすぐにままごとコーナーに行き、すかさず「これ、いいだろう。あれもいただき!」と言って皿を全部抱えて持ち出す。その後も二人は何度か来て台所用品のほとんど全てを抱えて持ち去っていく。ままごとコーナーで遊んでいた子どもはあ然としながら見ていて、二人が再びやって来た時に「それも持って行くのかよう」とボソボソ言うだけでした。自分の遊びに必要なものが揃った子どもは満足げにおうちごっこを始めました。一方、遊んでいたものを奪われた子どもは剣作りをしている友達の所へ行き、気を取り直して剣作りをはじめました。

このような光景は、子ども達の遊びの世界でよく見られる場面ではないでしょうか。

 相手に文句を言わせる隙を与えぬ勢いでどんどん物を取っていき、自分の物にして満足する。自分の遊びに必要と判断し、決めたら、相手が使用中であろうと物を奪っていく行為。自分の都合のよいように他の子にはルールを守ることを要求するが、自分の欲求を満たすためにはルールもなく強引に行動しがちです。他の子の意図や欲求に気づかないのか、それとも気づいても無視するのかは定かではありません。自分で考え、判断する力は持っているけれどもそれらが他の友達の意図や欲求との協調的な関係の中で実現されるのではなく、極めて自己中心的な方向で発揮されているのです。この事例から、自分で判断できればいいのではなく判断の方向が友達の権利を保障し、友達との協調関係を維持するようなものであることが大切であるといえます。

 

5・自己判断はどのようにして発達するのでしょう

 自分で判断する力の発達は個人の動機付けや認知の発達としてのみ捉えられるものではありません。他人との具体的な関わりを通した社会情動的な関係性の発達に影響されます。人間は他人との関係性の中に生まれ、社会に参加しながら「自己」を形成していきます。自己と他人との関係性は、社会性の発達という側面に限らず、自ら判断する力を含め子どものあらゆる側面の育ちに深く関わっているのです。

 生後9か月頃になる子どもは、新奇な対象や状況に出会うと、身近な他人(両親であり、祖父母であり、兄弟、友達)を参照してその情報から肯定・否定の情報を探索します。そしてその情報によって接近・回避という自分の行動を調整します。つまり、愛着の対象をよりどころに、子どもは対象や状況を判断し、理解していきます。愛着対象の人の果たす役割がさらに重要なのは、認知や表現上の参照枠としてではなく、子どもが新たな世界に立ち向かっていく拠点、すなわち「安全地帯」としての役割を果たすことにあります。発達とは、子どもが今までに獲得した世界から、新しい対象に向かって自分の経験を広げていく未知の世界にあります。

 子ども自身、新しい世界への好奇心に動機づけられ働きかけていこうとしますが、その一方で未知の経験であるだけにうまく対処する方法を持たず、失敗もします。新しい世界で、幼い子どもは好奇心と不安との間の葛藤を経験するのです。自力でその不安を克服していくほど強くはありません。その時、子どもは愛着対象のもとにひとまず退避し、そこで不安を和らげてもらい、励まされ、再び新奇の対象に立ち向かっていくのです。また、判断が適切でない時には、その是非や理由、代案等を示してもらい、子ども自身が納得しながら、適切な判断を学んでいきます。このように自ら判断する力は他人のまなざしや援助によって、徐々に長い期間にわたって形成されていき、適切に方向づけられていくのです。

 幼稚園で飼育されていたウサギにニンジンをあげてみようとした子どもが、ニンジンと一緒に指をかじられそうになって先生にしがみついてきました。先生はにっこり笑って抱きとめ、「大丈夫、大丈夫よ。こうやってニンジンをやるとかじられないよ」と励ましながら手本を示すとおそるおそるウサギに近づいていく。先生と一緒ならウサギに餌をやることが出来るようになり、次第に自分ひとりでうまく出来るようになる。先生の存在は子どもの不安を軽減し、安心させてくれる基地として機能しているのです。

 何らかの原因で愛着対象を持っていなかった子どもは適切な判断が出来なくなったり、また、成功や失敗への適切なフィードバックを経験してこなかった子どもは適切な判断ができなくなったりして新しい世界へ踏み込むことが困難になることがあるのです。安全基地としての愛着対象はしだいに現実には側にいてくれなくてもやがて自分の心の中に内面化されて存在するようになります。その結果、先生から離れても、心の中の先生を心のよりどころとして、さまざまな不安と戦えるようになり、自立の第一歩を踏み始めるようになるのです。このような安定した愛着関係のもと、子どもは1、2歳になると自らの意志を持って表現し始め、さらに相手の交渉の仕方、相手の立場も考慮した判断の仕方等を学び始めるのです。

 幼児期前半までは、親と子、先生と子どもなどの縦の関係が主流でしたが、幼児期後半から児童期になると子ども同士の横の関係が加わり、子どもは仲間集団の一員として行動するように動機づけられていきます。大人からの直接の監視や干渉から離れ、自分と友達、自分と集団が関わり合う仲間集団の中で、人との関わり方や社会的慣習や基本的道徳を身につけていきます。この時期の子ども達は、仲間集団で共有される価値やルール基準をもとに物事を判断し、意志を決定し、行動していくことが多くなります。

 児童期、さらにはその後の思春期において子どもは他人との関係の中で、あるいは仲間から多大な影響を受けつつ、自ら判断するための枠組みを見出していくと言えます。

これまで「自ら判断する力」は他人との関係性の中で発達する物であることを述べました。その育ちは大なり小なり、社会化のプロセスでかかる大人のありようを反映していることを忘れてはならないでしょう。

 

6・正しい判断力が育ちにくくなっている?

社会の急速な変化、価値観の多様化、核家族化、少子化,子どもたちの多忙化、遊びの変化などさまざまな原因が考えられます。

 

(イ)社会の変化−「私事化」の影響

なかでも,「私事化」といわれる社会の変化の影響が大きいのではないでしょうか。経済が豊かになるにつれて、人々が生きている意味や価値を私的な生活に求める傾向が強まり、その結果として共同体への吸引力が弱まっていくのです。つまり、「公」的規範意識が弱まり、「私」的価値観を大切にする社会へと変容してきたのです。

このことは、個人が主役で自分のライフスタイルに応じた生活を営むというプラスの側面もありますが、自分さえよければいという利己的・排他的考えを生むというマイナスの側面も持っています。自己への関心の高まりは過剰な自己防衛意識を生み、他人の視線を過剰に気にしたり、友だちの意見にいたずらに同調しようとしたりする傾向を生み出し、対人関係の不安や自己肯定感の喪失にもつながっています。

 

(ロ)核家族と少子化の影響 

 生活が豊かになり、少子化が進むと,子どもたちに対して、大人の目が行き届きやすくなります。「○○しようね」と大人が子どもの判断をうばい、先回りして「禁止」したり、方向を示したりしすぎてはいないでしょうか。適切な禁止や助言は必要です。しかし、「過ぎたるは及ばざるがごとし」の諺にあるように、自分で考えない、指示待ちの子ども、受動的な子どもが多くなるのではないでしょうか。                        

一方で、「自己中心的な子どもが増えた」ともいわれています。原因の一つに、子どもに手をかけすぎ、親が子どもの「家来」のようになってしまうケースがあげられます。自己中心的な子どもは、自分の価値観できちんと判断しているという見方もあるでしょう。しかし、それはあまりにも「幼稚な判断力であり、「正しい判断力」とは言い難いのです。

 

(ハ)子どもたちの多忙と遊びの変化

子どもたちは、塾通い、習い事などで多忙化しています。子供たちの遊びは「外で大人数」で遊んでいた時代から「室内で少人数」のコンピューターゲームを中心とした遊びに変わっているように思います。それも、空間は共有していますがバラバラのゲームをしているのをよく見かけます。そこには、子ども同士の対立は少なく、判断力を必要とする場面が集団での外遊びよりも少ないのではないでしょうか。そうであれば、親子の関わり方

は大変重要になってくると思います。

 

7・家庭で育つ判断力

(イ)「誉めること・叱ること」から

 当然のことですが、子供たちの生まれてからの生活は家庭で過ごす時間が長く、幼児期の判断力の育成は家庭が基盤になることは言うまでもありません。「悪いことは悪い」「よいことは良い」のきめ細やかなしつけの中から判断力は育ちます。

 

(ロ)「言語メッセージ」と「非言語メッセージ」

 子供たちが判断力を身に付けていく過程で重要になるのが、「言語によるメッセージ」と「非言語によるメッセージ」です。自分の言動の評価をこれらのメッセージによって受け取ります。しかし、幼児期の子どもは、「言語によるメッセージ」の受け取りは十分ではありません。当然、「非言語メッセージ」との併用が必要になってくるのです。

良い行い、判断をした時に言葉で誉める・喜ぶとともに「にっこり笑う」「抱きしめる」「感情を込めた言葉かけ」によって、それらの言動は強化され、身につきます。悪い行い、判断の誤りの時は、教えたり、正したり、叱ったりしますが、愛情に満ちた叱り方でありたいものです。

叱ることと怒ることの意味あいは異なります。子どもに対して、叱ることはあっても怒ることのないように気をつけたいものです。

 

(ハ)「誉めかた」と「叱り方」

 ここで難しいのは「叱り方」であると思います。誉めることと叱ることは「正しい判断力の育成」にとって、表裏一体で欠くことのできないものです。

 子どもは失敗をたくさんします。その失敗をどの様に受け止め、どの様に修正すのか。「失敗をしてそれをどの様に乗り越えるか」が今後の子どもたちの成長に大きく関わってきます。その時の親の言葉かけや態度が子どもたちに大きく影響するのです。

 

(ニ)「失敗体験」と「成功体験」

 「失敗させない」ことは、子どもたちの健全な成長や判断力の育成にマイナスになることがあります。転んだ子どもにすぐ手を貸すのか、自分で立てるように見守っていくのかの違いです。「失敗を通して、自分で獲得していく力」こそが大切な力であり、生きてはたらく力となるはずです。その力を生かして「成功した体験」が生まれると身についた力となるのです。

 

(ホ)「ほったらかし」と「見守ること」の違い

 「手を貸さない」という行為は同じでも「放っておく」「関心を示さない」と「見守る」では全く意味が違います。自分に関心を示してくれないということは、子どもにとっては一番つらいことで、「自己肯定感」が育ちにくくなります。

誉められること、叱られることは、自分との関係で関わりを持っていてくれることが確認できます。しかし、関心を示さない、放っておかれることは見捨てられている感じがします。適切に叱られることとほめられることで規範が身についていきます。そして善悪の観念が育ち、言動の基盤ができるのです。

 

8・幼稚園・学校で育つ判断力

(イ)先生による規範・判断基盤の育成

幼稚園児から小学校低学年の幼児、児童期は、幼稚園や学校が子どもの判断力を育成する場となり、力が大きくなります。先生の示す規範・判断が親よりも絶対的な権威を持つことがしばしばあることは親(大人)にも経験があったと思います。「先生がそう言ったもん!」「先生がそうしなさいといったもん」と言って子どもたちは、親の話よりも担任の先生の話を第一として捉える時期があるのです。

 

(ロ)他律から自立へ

 幼稚園児から低学年の幼児、児童たちは、幼稚園、保育所、学校でよいことといけないことの規範を学びますが一方的な禁止では本当の判断力は身につきません。「なぜ、いけないのか」「どうして叱ったのか」「どうしたらいいのか」をこの時期のうちから考えさせる習慣が必要なのです。

道徳においては、規範・道徳的価値を教えることが多くなりますが年齢が高くなるに従い、「社会的問題場面での決定力(判断力)」「個人的生き方形成(自分の生き方を考える)」などが重要になってくるのです。「先生が誉めたこと、叱ったこと」を子どもたちは経験することによって育ちます。もちろん、周囲の子どもたちも見て育ちます。ここに集団でのおけいこによる望ましい規範意識や判断力が育つわけです。

 

9・他の影響から育つ判断力

(イ)同年代の子が中心

 子どもたちの判断力の育成に友達の存在が大きいです。昔は、先輩、後輩、ガキ大将などの「タテ社会」による規範・判断の伝達・モデルがありました。現在の子どもたちの交友関係は同年代の子が多く、遊びを通して互いに影響しあい、成長していくのですがそのピッチは遅いように思われるのです。遊びは子どもたちの正しい判断力の育成にとってとても重要です。遊びの中で生じる小さなトラブル、勝敗をめぐるトラブル、仲間に入れるかどうかのトラブルなどたくさんの問題が横たわります。そして、その場面でどの様な判断をし、関係を調整していくかがポイントになってくるのです。また、昔と大きく違っているのは先輩から後輩への継承が少なくなっていることも遊びを少なくしている一因といえるでしょう。

 

 (ロ)マスメディアによる影響

 最近の若い女性の笑うときのしぐさを見ると、以前は笑う時には「口を手で隠す」というのが一般的でした。そこには「大きな口をあけて笑うのはみっともない」という教えがありました。ところが近頃の若い人たちは「手をたたいて笑う」のをよく見かけます。この笑い方は家や学校では教えているとは思われず、これはテレビなどの映像による広がりであり、一般化しつつあるのでしょう。これなどは一例ですが、判断を下すときの基準に「親、先生、友達」に並んで、テレビなどマスメディアの持つ影響は無視できません。バラエティ番組は子どもたちの判断力や行動に影響しやすいのです。

 

10・自分の中で育てる判断力

(イ)自分と向き合う時間を作る

 実に今の子どもたちは忙しい。時間的な忙しさもさることながら「待つ」という時間が生活の中で確実に減少しています。テレビゲームも性能が向上し、場面の変わりも速くなりました。待つ時間などほとんどなくなりました。ところが決断力はどうでしょう。速い子と遅い子、それを待てない子、自分で決めるのを放棄してしまう子。

 いずれにせよ、「ちょっと待って自分と向き合う時間」が必要ではないでしょうか。

 

 (ロ)自分の中に「もう一人の自分」を待つ

 多少のいけないことをしても誰も何も言わない社会になりました。万引きしてもばれなければいい。ばれたら謝ればいい。そんな短絡的な思考のなかで、「本当にそれでいいのか」と言ってくれるのは「心の中のもう一人の自分ではないでしょうか。社会が許しても「もう一人の自分が許さない」と考える人々がどれだけいるでしょう。

 路上にごみのポイ捨て、公園のベンチ横の空き缶の放置、電車の中での携帯電話をかける人・・・数え上げるときりがありません。

このもう一人の自分を磨き、育てる時期が幼小中学校期であり、その習慣(親がしつける期間)は幼児期後半から始まっているのです。

 

11・正しい判断力を育てる基盤となるものは

(イ)自己肯定感を高める

 自己肯定感とは、自分を大切に思う気持ちや自分への自信を意味します。

 この気持ちは自分が大切に扱われてこないと育ちません。親や親戚や教師、周囲の人たちから自分を認めてもらい、愛されてきた子どもはこの感情を持ちやすいのです。残念なことに非行に走った子や学校嫌いになった子はこの感情が低いといわれています。「どうせ私なんて」という否定的な気持ちにならないような子どもを育てることです。この感情が「正しい判断力」が育つ源となるのです。

 

 (ロ)自己決定力を育てる

 もう一人の自分とは、何事も自分で判断し、決める力であるわけですが現在の子どもたちは、「人に決めてもらっている」ことが多くはないでしょうか。また、親や先生の「顔色」で決めてはいないでしょうか。自分で決めてその結果まで受け入れることが大切なことなのです。よくても悪くても、その結果まで引き受けることが、自分で判断を下すということであり、この過程を身につけなければなりません。

自分で判断を下すのをためらう人には、依頼心の強さ、受動的な生育暦があげられます。「責任を取ることへの(無意識)恐れ」があるのだと思います。よくても悪くても「自分は大丈夫」(自己肯定感が高い)という基盤を持ち、自己決定を繰り返すことが「正しい判断力の育成」につながるのです。

 

(ハ)人間関係力を育てる

 人間関係力とは人と関わる力、関係調整能力です。この力は実生活に大きく関わってきます。人と人とが関わる時に、必ず判断しなければならない場面に出会います。それは良い時も悪い時もあります。ある教育学者は「いじめは観衆・傍観者層の動向によってエスカレートするか、縮小傾向になるか決まる」といっています。

 問題場面で、どの様に意思決定するのか、対人関係をどの様につくり上げるか、相手のことを考えた判断をどの様に主張したり、相手を受け入れたりしていくのかその子なりの判断力が必要になります。ここでは、どう行動するか。何をどう言うかを考え判断して行動する。この過程が大切なのです。

 身近に健全なモデルがいればいいわけで、それは親でもいいし、親戚(祖父母)でも先生でもいいわけです。「健全なモデルがあり、自分の内面と照らし合わせる時間があること」がこれからの判断力育成には必要と思うのです。 「正しい判断力」を育成するにはマニュアルはありません。一人ひとりが日常生活やさまざまな体験を通して獲得していくものです。「マニュアル」がないと不安になるかもしれません。しかし、それを乗り越えて判断を積み重ね、その結果を受け入れることが本当の判断力を育てることになるのです。

 

12・人の意見を聞かない子

「乱暴はしてはいけませんよ」「もういい加減にゲームはやめなさい!」「宿題をさっさとしなさい!」と親がカナキリ声で言っても聞かない子どもがいます。それは本人が聴こうとしないからであり、大人の対応が子どもに効いていないからです。こういう子は先生や親など、周囲の者から発せられる要求を、心理的に遮断しているのです。では、どの様にすれば子どもが「聞こえて」「聴く」,「効き目」のあるように伝えることが出来るでしょうか。キカナイ子が育つのはなぜか、その理解を深めるために、まず子ども (児童)となる以前の「乳幼児期」における子と環境の関わり、すなわち乳児が環境からどのように情報を得たり、学習を行ったりしているかを心理面の視点から説明してみます。

(イ)「自分」らしさの形成

赤ちゃんは、五感から刺激や情報を受け取り、自分の中に取り入れていきます。赤ちゃんが自身の身体から発するニーズを、周囲が満たしてくれたり、満たしてくれなかったりします。この「満たされる・満たされない」体験が繰り返され、身体的学習をしていくのです。赤ちゃん自身の中には、「私=自分」が芽生え、次第に「身体的自我」が育っていきます。生まれて数ヶ月たつと、親という外部の存在から提供される「食料=母乳やミルク」や「ぬくもり」「排泄の始末」などを自身の外のモノとして「身体が理解する」ようになるのです。自身の身体、それも皮膚感覚という媒介を通して、自分の「外」と「内」とを区分する意識の枠が生まれます。

 身体の「外」と「内」という意識の発達にともなって、赤ちゃんは成長していき、徐々により多くの情報を自身の中に受け入れ、自分のモノとして「内在化」させていきます。内在化のプロセスが順調にいけば、適応的な行動をとっていきますが親や周囲から養育の提供が欠けたり、養育の量や仕方が激しく変動した場合には、子どもに不適応的な行動が現れたり、不安定な状態に陥ったりするのです。

 

(ロ)内在化の形成

 赤ちゃんが自分と自分のものでないモノを理解するようになると、「心の中の世界」が生まれます。その世界は、外界との関わりで感情やぬくもり、食料、緊張感、恐怖といったさまざまなモノを取り入れたり、排泄したりします。この過程で、赤ちゃんは自分の心の世界に感情や体感といったさまざまなモノを「貯える」ことになるのです。精神分析では、この貯え方(内在化)を、大きく「のみこみ」「取り入れ」「同一化」の三種に分けて捉えられています。

 

@「のみこみ」について

 生まれたばかりの赤ちゃんが、提供された母乳やミルクが空腹を満たすモノとは認識せず、そのままのみこむという実際の行動と同様に、心理的にも人の言うことを何も考えずに自身の中に入れてしまう現象を意味します。心理的なのみこみは、赤ちゃんのように自身がまだ判断する段階に至っていない場合や児童期以降でも精神的に病んでいる場合に生じやすいのです。赤ちゃんや精神的に病をもつ場合には、自分の内と外の境界が曖昧であるため、外界のモノが自分の中に入って、自分の力では対処できないでのみこまれる恐怖が心の根底に存在します。恐怖が強いために、入ってくるモノを一つひとつ確かめずに、のみこんでしまうのです。時によって、のみこんだモノは内面に取り入れず、そのまま外に出されてしまうことがあります。いわば、左耳から右耳へ素通りするかのように自分のモノとはならずに通過してしまうのです。

A「取り入れ」について

取り入れは「のみこみ」と類似した現象です。自分と他者が分化して捉えられます。もう少し進んだ発達段階で生じる内在化です。子どもは、自身にとって重要な対象からの情報を取り入れて、自身のモノとしていきます。両親は自分たちが大切と思う価値観や善悪の基準を取り入れて欲しいと言葉で伝えていますが子どもが取り入れているのは、こうした直接的な言葉だけではありません。家族の中で暗黙のうちに伝わっているさまざまな感情、価値観、対人関係のパターン、言葉使いなどと多くの情報を子どもは知らず知らずのうちに、自身のモノとして取り入れているのです。

B「同一化」について

同一化は、自身と他者をはっきり区別して、自身をより客観的に捉えられる発達段階で生じる内在化です。この段階では、すでにその子どもの性格(独自性)がはっきりしており、興味、関心や人に対する好み(尊敬する人、苦手に思う人、恐れを抱く人など)も形成されています。つまり、それまでに取り入れるべきモノを取り入れており、学習し、取り入れられたモノが他者の「ものまね」ではなく、自身の一部として捉えられている状態になっています。こうした状態で、外界にあるモノや性質を自己の内に取り入れて、それに沿って行動する現象を同一化と呼んでいます。同一化ができるようになると、「この人のようになりたい」など、他者を全体的に捉えられることができ、自分が目指す目標を自分の意志として具体化できるようになります。そのため、子どもが誰に、どの様に、同一化するかによって、適応的なパターンが決定されるようになります。同一化によって形成されたパターン(行動の仕方)は容易に変化しません。

 

(ハ)内在化の影響

 「のみこみ」「取り入れ」「同一化」という三種の内在化のあり方は、互いに重なり合う部分もあります。発達的成長に沿って,心理的な「のみこみ」ばかりでなく、「取り入れ」や「同一化」が行われるように変化します。しかし、大切な人が突然いなくなるなどの深刻な対象喪失を体験すると、この成長による変化が阻害される場合もあるのです。

 内在化は、さまざまな学習の基本であり、親を中心とした身近な対象の行動などを「まねる」ことで、自身の心の中に入れてみる現象です。子どもは親や周囲からの情報をキャッチし、その人たちの対人関係のパターンや感情表出のパターンなど振舞い方もキャッチするのです。キャッチしたモノを自身の中に「丸のみする」状態からより選択的に「取り入れる」状態、さらには、取り入れるばかりでなくそのように振舞う「同一化」する状態へと進みます。こうした内在化の仕方は、精神的な安定と関連しているのです。

 親にすごい剣幕で怒鳴られたり、大変怖い状況に陥ったりした時に、子どもは不安や恐怖のために、その事態を「取り入れる」ことができず、「飲み込んでしまう」ことがあります。この心理的なのみこみは、心の中にスーッと入り込んで、子ども自身一見何も感じていないように見えます。子どもが恐怖や不安を表さないので、内在化する際の怖さがないように見えます。しかし、表情には出ていませんが本人にも気づかない心の奥で、不安や恐怖を痛切に感じているために、表情に出さないという反応で排除しようとしている場合もあるのです。

 「同一化」といった自分と他社という枠組みがしっかりとできていると、相手の言うことを無条件にのみこんだり、心理的に相手にのみこまれる不安を感じたりすることはほとんどありません。相手の一部を取り入れるか、あるいは取り入れずに排除するかの判断を、能動的にできるようになります。その段階に至らなくても、「のみこみ」という漠然とした内在化よりも「取り入れ」が可能になった子どもは、相手の意見を選択的に自身の意見として取り入れる準備ができます。相手の「意見」を聞かないという反応は、のみこまれないために起こるのです。

 

13・判断出来る子どもを育てる

子ども自身が正しい判断を下して行動に移せる力は、不透明な未来を切り拓く「生きる力」として,ぜひとも身につけさせたいものです。しかし、モノや情報があふれ、価値観が多様化し、家庭や地域での教育力やモラルが低下しているような現代では、判断するということ自体難しくなっているように思います。これからの情報化社会では、あふれる情報の中から何が必要であるかを分析、選択する一連の判断能力と多様な価値観の中で、偏見や自己中心主義に陥ることなく、正しい判断を下す能力が求められます。日々の生活の中で、このような力を育てるには、私たち大人が、どのような点に気をつけ、どの様に関わればよいのでしょう。

 

(イ)豊かな時代の悩み

 これは、あるファミリーレストランでのごくありふれた親子の光景です。

小学生の男の子が家族と一緒に食事に来ている。男の子は、テーブルの前に座っているお母さんが隠れて見えないほどの大きなメニューに目を通しています。おいしそうな写真がずらりと並んでいます。今男の子の頭の中では、おそらく過去の経験値と現在の欲求のマッチングが繰り広げられていると思います。

「ハンバーグもいいけど、スパゲッティも捨てがたい・・・・。スパゲッティはミートソースがいいな、でも明太子のスパゲッティにしようかな。ボンゴレって何だ?」とぐずぐずしていると、          

「早く決めなさい!○○ちゃんはもう決めているわよ!」

見るとすでにお子様ランチが運ばれてきて妹は身を乗り出し,プリンの上の真っ赤なサクランボをつまみかけています。一気に食欲を刺激された男の子は、シミュレーションをシャットダウンしてこう叫びました。「あ−、もう何でもいい!」

さて、このようなケースの場合、男の子に判断力がないのでしょうか。彼は、過去の経験値と照らし合わせて分析したが幸か不幸か、たまたまどれもが彼にとって魅力のあるアイテムだったため一つに絞り込むことができなかったのです。妹がお子様ランチを即決できたのは、恐らく彼女には「サクランボ」という、決定的な価値基準になる最強のアイテムがあり、過去の経験から来るモノや情報の選択肢が少なかったからといえるでしょう。

豊かな時代、モノや情報の選択肢が増えることでこの男の子ように選びたいという欲求があっても、一つに絞り込めないことは増えてくるでしょう。

 

(ロ)お母さんはファシリテーター(促進する人)

 もしもこのような展開になったら、親としては判断力を養うチャンス

だと心得て、冷静な対処を考えることだと思います。間違っても「何て優柔不断なの!」あるいは「ぐずぐずしないでさっさと決めなさい。○○ちゃんはとっくに決めているのよ!」といって子どもを責めないで欲しいのです。

 たとえイライラが爆発しそうでも、判断力を育てたいと思うのであれば、ここはグッとこらえて、自己決定をフォローする方法を試みてみましょう。

 例えば、親の方から「昨日、何食べたっけ?」というように聞いてあげ

るのです。

「えーと、ハンバーグだった。だったらスパゲッティにしようかな」

「たくさん種類があるけどどんなのか分かる?」

「うん、ボンゴレってなに?」

「さあ、何だろう?誰か知っている人いないかしら」 

「そうだ、お店の人に聞いてみよう」

この辺まで来るとこの男の子は、自分で考えるモードに入っています。

「ふーん、アサリのスパゲッティのことなのか。それ好きじゃないなあ。久しぶりにミートソースにしよう」こうして無事にこの子もオーダーに至ることになるのです。

 これは、最近ビジネス界で取り入れられている「コーチング」という手法を応用したものです。「コーチング」は「ファシリテーター」と呼ばれる指導者が、自己決定を導きながらモチベーション(やる気)を高めていく方法です。判断材料や判断基準を示唆することで、判断力を向上できるように工夫します。

 ファシリテーター役の母親は、男の子に「最近食べたもの」を基準に考えればよいことや、どうすれば情報収集できるかを考えるきっかけを与えてはいるだけで判断をしているのはあくまで男の子です。このようなやりとりを何度か経験して、選択肢を絞り込む方法が習慣化してくると、そのうちひとりで判断できるようになるでしょう。

気をつけなければならないことは、ファシリテーターの主観が入らないようにすることです。主観が入ると、判断を下したことに自己責任がもてなくなるからです。例えば、母親が「これ、おいしそうだね」といってしまうと、おいしくなかった時に「お母さんがおいしいと言ったじゃないか!」と責任を転嫁してしまう場合があるのです。

 自分で判断する力とは、結果に責任を持つことでもあります。本当は誰かの意見を参考にしたとしても、自分で責任を取るべきなのですが初心者はまず、自分の意志で決めることに焦点を絞ってトレーニングした方がよいでしょう。

 注意点を踏まえた上でこの方法を用いれば、ごくありふれた日常の、何気ない親子のコミュニケーションの中で、情報を整理、選択していく判断力と自己決定力を育てることができると思うのです。何かを選ぶという場面は、生活の中でたくさんあるはずです。ファシリテーターの力量が結果を左右するのは確かですが子どもが決めかねている時、コミュニケーションを楽しみながら、一度試してはいかがでしょう。

 

(ハ)あるときはサポーター、またある時は・・・

 さて、前述の男の子の妹がお子様ランチを即決したのは「サクランボ」と言う判断の基準が明確だったからと述べました。基準があれば、自分はこうしたい、こうするべきだという「意思」が強く働きます。その意志が自己決定力なのです。

 では、どうすれば判断基準としての「サクランボ」を見つけることができるのでしょうか。大人が判断の基準を示し、失敗を含めてとにかくいろいろな経験をさせることです。 

 「サクランボ」がおいしいかどうかは、食べてみなければ分かりません。失敗を怖がる子には、「失敗してもいいからやってごらん」とか、おけいこでは「失敗しても気にしなくてもいいからやってごらん」と声かけが大切です。受け止めてくれる人がいるとわかると、子どもは恐る恐るでも挑戦するようになります。そして、失敗することは悪いことではなく、次はこうすればうまくいくというヒントを教えてあげます。そのヒントが判断基準となるのです。さらに「頑張ったからできたね」と言ってあげれば失敗のネガティブ・イメージが払拭されて次の難題にもチャレンジしていく勇気が持てるにちがいありません。

 そうやって,初めて自分の判断に責任を持つことができるのです。さらに、その勇気と失敗を乗り越えた自信が、不測の事態でも自分で判断して実行していく力となっていくのです。

 「食わず嫌いは損をする」とはよく言ったものですが、だからといって手当たり次第に何でも食べていては、運悪く命を落とすこともあります。その辺りの見極めをするのも、大人の大事な役目だと思います。失敗を見守るのは、大人が安全を確認できる範囲ですべきは言うまでもありません。

 次に判断の基準を示すということについてですが、一つ気になるのは、経験させることに否定的な親はいないと思いますが、モラルを示すことに抵抗を感じる向きが、少なからずあるように思います。

 人間は、例外なく欲求を持って生まれてきます。この欲求レベルがゼロになると、人間は生存できなくなるので、常にある程度のレベルを維持しなければなりません。よって欲望を維持する機能は、抑制する機能より上回るようになっています。そこで欲望の暴走を制御するプログラムをインプットする必要が出てきます。モラルとは、欲望に対する危機管理であって、子どもの自由や自主性をうばうものではありません。暴走する欲望と自由を混同することなく子どもに正しく判断出来る基準を与えることは、子どもより先に生まれた者としての使命ではないでしょうか。規範と経験は車の両輪であり、どちらが欠けても健全な判断力は育ちません。私たち大人は、子どもの経験を支え、励ますサポーターであると同時に、手本を示すよきアドバイザーでなければなりません。

                           

(ニ)人のつながりの中で育つ判断力

子どもは本来親だけが育てるものではありません。異年齢の兄弟や世代の違う家族、隣近所の子どもや大人の中で切磋琢磨しながら、小さな失敗や成功を繰り返しながら生きる力としての判断力が養われるのですが昔の日常は今や非日常の世界になっている感がします。しかし、自分の子もよその子も、親を含めてコミュニティーが育てるという感覚を取り戻さなければ真の判断力は育ちません。

 実は、最近、自分のことしか考えられない子どもが増えていると聞いているし、そのような場面に出会うことがしばしばあります

 子ども同士のちょっとしたトラブルがあったとき、「自分がされて嫌なことは友達にもしないで置こう」と先生が言っても「自分はそういうことをされても平気だから」と相手の気持ちを理解しようとしない子どもがいます。兄弟の数が減り、異年齢の子どもと遊ぶ機会や、親以外の大人と過ごすことの少ない環境では、個人を尊重することや自由な精神が歪んで現れてしまうのではないでしょうか。いくら自分で決めて実行に移せるようになったとしても、他人を不幸にする判断しか出来ないのでは何にもなりません。

 その意味でも、地域の中で異年齢の子どもたちと育ち合うことや、世代や立場の違う大人たちとの共同作業を経験することは大きな意味を持つといえるでしょう。

 

(ホ)大人が子どもに出来ること

コミュニティーが希薄化している現代では、人のつながりのある環境を、大人が意識して作り出していかなければなりません。まず大人が、地域の行事や祭りに参加して隣近所の子どもに目を配る、地域のボランティア活動に参加するなど、地域に積極的に関わっていく必要があるといえるでしょう。

 そこにおいて、異年齢の子どもたちが、さまざまな世代や立場の違う大人たちと一緒に何かが出来る仕掛けをつくれば、子どもはいろいろな価値観に触れ、さまざまな体験を通して判断力を身につけていくでしょう。地域には,いろいろな人たちがします。そういう出会いやふれあいの中で、自分も友だちも大切な存在であることやいろいろな違いを認め合って共に生きることが当たり前だという判断がきっと出来るようになると思うのです。 そして私たち大人はいつの日も、子どもたちのサポーターとして、アドバイザーとして、時にはファシリテーターとして、陰になり日向になりつつ、手を携えていくべき存在だということを忘れてはいけないと思います。

 

14・子どもが間違い・失敗をしたとき

 囲碁、将棋の対局後戦い終えた棋士が大局を振り返って検討しあうことがあります。初手から棋譜を再現しながら、構想に間違いがなかったか、攻防のバランスが悪くなかったかなど手筋や勝負どころをお互いに振り返る「感想戦」というものがあります。

 この「感想戦」で印象的なのは、断定的な表現が使われないことです。

「この場面でこう指したらどうなんでしょうか?」との問いかけに「厳しい手ですね」とか、「このような手は用意はしていたのですが不安がありましてね」とか「それもいい手ですね」といった具合です。

 「感想戦」と子育てを同じに考えるわけにはいきませんが子育てに参考となる点がいくつかあるように思います。例えば、

@必要以上に親から判断ミスを指摘しない

A子どもの考え方を尊重してまず話を十分聴く

B意見を言う場合には断定的な表現は避け、常に一緒に考える姿勢を持つなどです。

 

 (イ)判断するとは

 人間は何か判断する場合、まず同じ様な経験が過去にあったかどうかを思い出そうとします。もし、似たような経験があって、その結果がうまくいったと認識すればそれと同じような判断をし、うまくいかなかったと認識すれば一部修正をして判断します。これを身体的学習部分と呼ばれています。

 経験がない場合には、過去の経験以外から情報を求めて理詰めで推測するか他人の言動を参考にしたり模倣したりすることになります。これは、理屈で判断するので知的学習部分と呼ばれています。

 例えば、数量問題のある問題を解く場合、数多くおけいこをした幼児はその解く鍵を比較的早く見つけ出すことが出来ます。また、人間関係でも、過去に数多くの人と接していろいろな付き合いを経験した人は、多方面に、そして柔軟に人間関係を判断することが出来ます。このように「判断する」とは、身体的に学習された部分と知的に学習された部分を統合して、その方向性を決定することになるのです。

 スポーツの指導者が陥りやすいといわれる経験中心による指導法は、自分の選手としての経験が前面に出て理屈や理論が少ない状態での判断です。一方「論語読みの論語知らず」は身体的な学習部分が少ない判断の例えの諺です。適切な判断力とは、身体的と知的のどちらにも偏らない、両者のバランスが取れている状態が一番望ましいわけです。

 

 (ロ)経験と思考の場面を増やす

したがって子どもに対して「あれをしてはいけません」「このようにしなければいけません」などと大人の考えを押しつけることはそれが例えその時点で正しい判断であるとしても、子どもから新たな経験や自分で考える機会を奪ってしまうことになります。人間の成長では、失敗を経験し、それを乗り越えようとする過程に意義があります。幼い頃の自転車のりの練習で言えば、ただ単に自転車に乗れるようになることが自転車のりの練習ではないはずです。転び方を身につけたり、急ハンドルや急ブレーキの経験を積むことも将来的には大切なことなのです。また、繰り返し練習することで集中力や達成感や忍耐力や体力が養われます。親が一緒に寄り添った場合には親の愛情を知ることになります。将来もっと判断力が必要とされる時に備えて、経験と思考の場面を増やすように心がけることが親として大切なことと思います。

 

15・子どもの判断力を育てられる親

(イ)判断力とは

 適確に判断するには、知識はもちろんのこと、思考・感情・感覚・直感など、人の持つさまざまな力を動員することで、これらのバランスも求められます。人生には、熟考して判断することも多くありますが、瞬時に判断しなければならないことも多くあります。しかし、自ら判断することを避けて他者に同調したり、決断を引き伸ばしたりすることが多いように思います。

 大人は「子どもの〜を育てたい」と願うとき、自ら培ってこなかったことを子どもたちに求める傾向があります。大人たちは、子どもに対して極めて押し付けがましく要求し、それを「教育」とか「しつけ」であると思

い込みがちです。まず振り返りたいのは大人自身の判断力について考える必要があるように思います。

何かにつけてマニュアルを求める今の社会は「判断することを停止している」大人が多いとはいえないでしょうか?日常的に行っている決定も、自己中心的な願望に頼っていることが多く、「判断」とは言い難いような気がします。過去にも現在にも目を向け人類の未来をも見据えて決断する「判断力」であることをまず強調したいものです。

 

(ロ)ある日の電車の中で

電車に乗り込み、シルバーシートの前に立つと若い母親が携帯電話の操作に熱中していました。隣には、歩き始めたばかりの女の子が、大人用のお茶の容器につけた、乳児用の吸い口を唇でもてあそんでいました。その子の表情はうつろで沈んでおり、生気がありませんでした。ただボーっと座っていて母親を求めるでもない、母親も子どもに関心を向けず、黙々と携帯電話を操っているその光景は、母親の目だけが携帯電話に目をランランと注ぎ、電車が終点に到着するまで続いていました。

 携帯電話に熱中していた母親も、子育ての責任を感じていないとうことはないと思います。しかし、その子が電車の中で目にし、興味を持つことに応答せず、いつ、どこで親子の対話をしているのかと疑問になってきました。

 「電車の中で声を出すと周囲の人たちに迷惑になるから、お茶をあてがっている」という反論があるかもしれませんがその母親は荷物を脇において二人分の席を占領していることに無頓着でした。

たまたま、母親の前に立っていたという巡り合せた者の責任を、私は思い悩んでいました。子育てに自信のない若い母親が、他者からの意見に不安定になって子どもに当たるという場面に出会ったことがあるからです。  

私は、どのようにして見ず知らずの若い母親に接するかという、年長の者としての判断についても思い巡らした一日でした。

 

16・すぐ「これどうするの?」「わからない!」とお伺いをたてる子

プリント問題の説明が終わって、取り組み始める前にすかさず、「この問題わからない!」「始めていいですか!」「こうすればいいんですか!」等など数人の子どもたちの声が聞こえてくることがしばしばあります。

この様子をよく観察してみると、後でやり方を聞けばいいということで集団に対する説明を集中して聞けなかった子や確認しないと作業がなかなか始められない子が多いことです。そのたびに一つひとつをその子に対して説明しなければならないこと幾度もあります。

 このような子どもたちは他の子どもたちに比べて「集中して聞く力」や

「内容の理解」が不十分だからでしょうか。それとも特別に慎重だと言うことでしょうか・・・。そうでもなさそうです。

何をするにも「聞きなおし」をしなければ、確認をしなければ始められないことが習慣化しているように感じています。

 

(イ)何が子どもにお伺いをたてさせるか

 考えられる原因は7つほどあります。

@皆に対する話を自分以外の子どもたちに話していると思っている。

A今までに何か失敗をして嫌な思いを強く感じた。

B今まで自分で判断したことが極めて少なかった。

C親が取り掛かる前後に口を挟む。(決して誉めるようなことを言わない)

D自分の判断が他者から強く否定されることがある。

E何でも人に頼りすぎていた。あるいは頼っていた。

F自分の行動や力に自信がもてない。

 

@話が聞けない

 まず「お話が、或いは説明が聞けない場合」です。これは、多数の友だちと遊んできた経験が少ないことが考えられます。多くの友だちと遊ぶ環境にはいろいろな会話が飛び交い、それを聞かなければ積極的な遊びが出来なくなります。特に遊びを演出させる大人(他人の親)の言語的リード(指示)は集団での遊びでは「聞いて行動する」という面から経験を多く持たなければなりません。とかく母親は自分の子だけを相手に遊ぶという傾向(親と子の一体化)が強いのですが社会性を育むためにもよそのお母さんと交代で子どもたちの世話をするのも効果的です。

集団に対するお話や説明が今から始める取り組みに大切であるという認識の希薄さから出ています。この間に周囲を気にしたり、あるいは自分の世界に入り、全く別のことを想ったりしているようです。そのため、顔の表情はその時の状況と一致していない場合がよくあります。

 集団という雰囲気に慣れ、集団の中の自分という存在認識と自覚が出てくればお話や説明を聞く力は徐々にではありますが身についてきます。

日常の遊びの中で自分を含めた仲間に話していることが聞ける習慣を身につけることから始まると思います。

 

A失敗に対す恐怖感がある

「今までに何か失敗をして、嫌な思いをした場合」には、ひとつに最近の親たちの子どもの育て方に起因していると思います。今、親たちは、自分の子どもと一体化していることが多いように思うのです。子どもが失敗したり、嫌な思いをしたりすると、まるで自分が失敗したり、嫌な思いをしているかのようになってしまい、一緒になって泣いたり、落ち込んだりしてしまい、自分の子どもを慰めたり、元気づけたりするのを忘れてしまう状態です。したがって、自分が嫌な思いをしたくないために、失敗をしないように育てようとします。本来は、失敗を重ねて成長するものです。

 教室でも失敗をしてもいい雰囲気が出来ていないと、子どもたちは、「失敗しないように」と常に緊張が続きます。このような場合、ちょっとした失敗が,徐々に尾を引いてなかなか回復できません。そこで私たちは、「失敗しても気にしなくていいよ」「問題はたくさんあるから失敗したら次の問題で頑張ればいいよ」あるいはまた「失敗するからおけいこをするんだよ」ということにしています。

「たくさんの失敗は、たくさんの成功に結びつく」は、私達の教室の前提にしているおけいこになっているのです。「教室では一生懸命取り組んで、失敗しても気にしない、失敗しない人なんていない」ということを常に意識化させ、異常な緊張感、罪悪感を払拭するように心がけています。

  

B自分で判断したことがない

 三つ目の「今まで自分で判断する経験がなかった場合」です。

 「自分で考えてやってごらん」と言うと「どうするの、どうするの」と言いながらパニックになってしまう子どもがいます。また取り組むそぶりをしてなかなかクーピーが動かない子どももいます。取り組みにびくびくしている子どもの様子を母親に尋ねて見ると家のおけいこで「常にミスを出さない完璧な答えを求めていました。」「私も子どもも常に出来ないといけないと思っていました。」とのこと、子どもは緊張しながらも頑張ったわけです。その頑張りの行動が「自分の判断が正しいのかどうか」をまず「確認」という言葉になって先生に問いかけてくるのです。

自分で勝手に決めてやり過ぎる子どももいれば逆に何でもお伺いをたててからでないと進められない子どももいます。自信過剰も問題がありますが自信のない子に自信を持ってやっていける子にしていく方がさらに難しく、時間もかかります。失敗しても、何回もやり直しをして頑張る子どもには大きな二重丸にA書いてあげ、自分で決めてやったことに賞賛してあげるのも私達のこのような考えが含まれているからです。

 

C親がおけいこのやり方に口を挟む

考えている時間が少し長くなると、「さっさとやりなさい!何をぐずぐずしているの!」と言われると、追い立てられている気持ちになり、考える力は一向につかないと思います。また、取り組もうとする矢先に、過剰な説明を受けると、主体性を持った取り組みが出来なくなると思います。やがて、主体性は、側について教える人(親)に移ってしまい、本来の目的から外れてしまう結果となるでしょう。最低限の説明にとどめ、子どもの主体性に任せるべきと思います。

 

D判断を強く否定する

子どもが判断して答えたものを頭から否定しては立つ瀬がありません。

性格的に弱い子どもは、精神的に威圧感を感じ、「間違ったらどうしよう」と思うようになり、ある種の恐怖感さえ持つようになります。そうなると積極的な取り組みは望めなくなります。

間違いにもそれなりの理由があって答えている場合が多いのです。子どもの意見も聞いた上で、是正していくのが賢明です。

 

Eなんでも人に頼りすぎ

六つ目は「何でも人に頼りすぎていた。あるいは頼ってしまう場合」です。

少々のことを周りの大人に頼ることは誰にでもある当然のことですが、自分独りで全く何もしない場合、多動で、落ち着きなく、少々おけいこに偏りがあり、極端に問題が出来ないことがあります。少しでも主体性を持ってすることを強化していく必要があります。小学一年生になる前に、出来ないことを、たとえ少しずつでも人まかせにせず、自分でやりぬくおけいこを習慣化する必要があると思います。

家庭でも頑張ってやった結果に対しては出来るだけ良い評価を続け、賞賛してあげることを続けることが望ましいのです。

 

F自分の行動や力に自信がもてない

七つ目の「自分の行動や力に自信がもてない場合」は、自信を持たせる教育を施すことです。保護者の言葉が、自信を喪失させているケースが最も多いようです。

子どもを目の前にしてよく聞かれる母親の会話に次のようなものがあります。

「この子には、何の取り得も無いんですよ」

「そんなことはありませんよ。大変よい子で真面目で頑張っていますよ」

「真面目だけが取り得じゃ、どうしようもないでしょ」

「お子さんの良い所はどんな所ですか」と問い返すと

「良い所ねえ、悪い所ならたくさん思いつくんですけど」と終始子どもを誉めようとしません。これを夫や妻に置き換えるとどんなことになるでしょう。たちまちその場で大喧嘩になり兼ねません。子どもは、一番親に認めてもらいたいと思っています。良さを誉めてもらいたいと思っています。ところが次々と子どもの欠点?を目の前で言われれば多感な子どもにとっては行動や自信がもてなくなるのは当然の成り行きとなるでしょう。そればかりか、ほかの面にも、どう見てもよい結果は生まれてきません。

 親の意識を変えるのはなかなか難しいものと痛感する時がしばしばあります。子どもがそばにいる時の親同士の会話は特に気をつけたいものです。

 

17・ぐずぐずして自分で決められない

 ぐずぐずして自分で決められない子どもの親から受ける印象で共通しているのは「テキパキと仕事などを片付ける」「しっかりしている」という正反対の印象を持ったタイプが多いようです。幼い頃から支配的な母親の下で、いつも指示を受けることが多く、「ぐずぐずしないで、さっさっとしなさい」とか「自分から進んでしなさい」という注意をいつも受けている子に多いのです。教室でのやり残しの問題(宿題)でも、家に帰ってすぐにやってしまってからでないと遊びに出かけることなど許されない。また、おけいこ中でも手を挙げて発言するよう強制され、おけいこの失敗を厳しく責められ、いつもよい結果を出すことが求められている。自分なりのものを表現することが求められたりすると立ちすくんでしまう。この繰り返しが続くと何事に対してもぐずぐずして自分で決められなくなるのです。

親の「ほら○○しなさい!」というような指示を多く出したり、「何回言えば分かってくれるの!」と言っておきながら結果については親の価値観で、あれこれ評価したり叱ったりすることが多いのもぐずぐずして自分で決められない原因になります。

 この二つに共通することは、先のことを考えすぎ、「誉められるためにはどうすればよいか」「失敗すれば叱られるかもしれない」という心配や恐れで頭がいっぱいになってしまい、結果としてぐずぐずして自分で決められなくなってしまうのです。

自分で決めることは大変な勇気のいることで、何もしないでぐずぐずしていることが一番安全な方法と考えるようになるといつまでたっても「決断力」はつかないでしょう。

 風邪のひきやすい、健康面で絶えず配慮の必要な子どもに対して、母親は、その日の天候で衣服を変える注意を払う。また、子どもにとって少しでも危険があるような運動や遊び、行事(遠足)には見学や欠席をさせる。

 「やってはいけない」「怪我をさせては困る」という幼い時からの繰り返しの結果、自分で決めて自分でやるという経験が不足しているとその場その場の適確な判断が出来ずぐずぐずして自分で決められなくなります。

「先生、寒いからセーターを着てもいいですか」

「着たければ着てもいいよ」

「お母さんはいつも決めてくれるんだよ」

いちいちセーターを着てもよいかどうか聞く子どもがいます。

この会話の裏には子どもは親や先生の判断や指示に従っていることが最も楽で安心できる気分でいられることにつながっているのです。

 

18・子どもが判断を誤った時

子どもがたくましく育って欲しいという親の願いの表れを、表すのに、「可愛い子には旅をさせよ」とか「獅子は子を千尋の谷に落とす」とか「若い頃の苦労は買ってでもしろ」の諺があります。しかし子どもに対する親の関わり方は複雑で、頭ではわかっていてもいざ実行するとなると難しいのが常です。ここでは、子どもが判断に誤った場合の親の関わり方について述べてみます。

 

@普段から親子のコミュニケーションの機会をもつ

子どもとのふれあいが少ないのに突然誤りを指摘されても子どもは受け入れることは難しいです。特に反抗期、思春期を迎えた子どもとの関係が疎遠になりがちな父親が、突然雷親父になって説教する場合、功を奏する

ことは少なく、逆に反感を強く持つようになるでしょう。

 

A時々親の考え方や経験(人生観)を話してみよう

物心つく頃(小学校高学年以上)から親の考え方や経験(人生観)を話しても話すほうも話しにくい環境になります。仮に話したとしても素直な気持ちでその話を聞き、受け入れてくれるのは難しいものです。年齢にあった話法で小さいうちから親の生き方や考え方、経験を話すことがごく自然な状態で聞き入れてくれます。子どもの生き方(学校への進路)は「子どもの考えを尊重する」「進路については子供に自由にさせています」と言う親がいます。進路の決断をするのは子ども自身であることに異論はありませんが決断に至るまでの過程に親が介入することは絶対必要なことです。

なぜなら子どものこれからの人生のビジョンはあるにしても極めて軟弱なものだからです。特に幼稚園、小学校の選択に関しては、大部分が親の考えで良いと思います。遠大な教育的ビジョンは先の先を見通すことのできる両親の考えを優先させるのが賢明な方法と言えます。

 

B普段から親が行動で模範を示しましょう。

言葉以上に影響を与えるのが行動です。子どもに「本を読みなさい」「宿題をしなさい」と言う一方で、その時に親がテレビを見ていたのでは子どもの意欲を奪ってしまいます。本当に子どもに伝えたいメッセージは、親の後姿で日常的に語るのが良いのです。

 

C生命や暴力や法に触れることはきちんと教えなければなりません。

社会のモラルやマナーやルールは子どもが自然に身につけるのは難しい場合が多いのです。いずれ誰かが教えなければなりません。特に幼児期から教えるのが有効です。

 

D子どもとの衝突を過度に心配しない。

 叱らないで済めばそれが一番であると考えている人がいます。しかし、他者から叱られることなく社会生活を送る人はほとんどいません。

叱られたり、誤りの指摘を受けられたりする経験を持たないのは無菌状態で育てられるのと同じで、社会生活への耐性を全く持たない人間になってしまいます。それは他者とのふれ合いに過度に反応する「突然切れる」や「引きこもり」につながる可能性があるのです。

 

E叱るだけが誤りの指摘とは限りません

時に誉めたり、見守ったり支えたりすることが叱るときより有効になることが多くあります。

 

19・何をもって子どものためとしますか?

 一般的に「悩み」は人間関係の中で生じる場合が多いです。親の中には子どもがおけいこ(勉強)に集中できるように「悩み」は出来るだけ排除しようとする親がいることも事実です。また、子どもから訴えられた「悩み」だけでなく、「悩み」を先取りして排除しようとする親もいます。これでは子どもが自ら「悩み」に打ち勝とうとしなくなります。子どもが今の「悩み」に打ち勝つ能力に欠けているということよりも大人になった時に本格的な不適応状態になる事のほうがはるかに大きな問題です。ルソーの『エミール』には「子どもを不幸にする一番確実な方法は、何でも手に入れられるようにしてあげることである」と記されています。

 

執筆後記

「ねえ、何食べたい?」すると子どもが「何でもいいよ」と答える。さらに母親が「じゃ、カレーにする?それともハンバーグにする?」とさらに聞いて見る。こどもは語気を荒げて「どっちでもいい」と答える。母親は「この子は何か不満でもあるのだろうか」と考えながらもハンバーグを注文した。やがて注文したハンバーグがきた。「ぼく、ハンバーグがいいと言わなかったよ」と子どもが言う。

このような光景はないにしても、これに近い様子は実際に目にすることがあります。また、電車中での幼児を横に座らせた母親が携帯電話に夢中になり延々終点まで操作をしている様子。など極端な例を取り出して見ました。「自分で考え、判断して、決定する」今回の課題は、多くの子どもにとって、なかなか難しいことと思います。

 最近の子どもは、物事をあまりじっくりと考えようとしないと言われています。最初から結論が自分の中にはっきりとしていればいいのですが、そうでなければ「考える」という過程を省略して結論に短絡的に飛んでしまうか、「考える」ことを面倒くさがって先ほどのようなセリフになってしまうのです。つまり、他人任せにしてしまう傾向があるのです。この他人任せは、どうかすると,喧嘩にまで発展する危険さえあるのです。

つまり、その結果が自分にとって都合が悪ければ、決めた人に文句を言うのです。自分で判断して出した結論なら誰にも文句は言えません。自分で責任を取らざるを得ません。しかし、他人任せにしていれば、その判断をした人を責めることが出来ます。

自分で判断するためには自分の頭で考えなければなりません。考えるための情報も集めなければなりません。そして、自分で決定しなければならないのです。そしてその結果が悪ければそれを引き受けざるを得ません。それが面倒なのか、自信が無いのか、いずれにしても自分で判断するということは、精神的なエネルギーを使います。そして、それが大人になっていく時に必要なプロセスであろうと思います。

子どもたちには主体的で自律的な人間になって欲しいと願っています。自分で判断するというのはその基本であると思います。

今回はそのための考え方、判断力の育て方について述べました。

子育てに多少の参考になれば幸いに思っております。

 

 今回の執筆にあたっても「児童心理」(金子書房)の内容を一部引用しております。
 参考文献:守一男,守秀子訳「人間この信じやすきもの」新曜社岡村達也著「自己愛としつけ」「乳幼児の心理的誕生」明治図書 

         
   おじいさん先生のページへ戻る