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やり抜く子、投げ出す子

子どもというのは、難問に出会ってイライラしている(欲求不満やストレスが高まった状態にある)時、その気持ちをしっかりと受け止めてくれる人が必要です。そうした人がそばにいれば、相当つらいことでも耐えて頑張ることが出来ます。今流で言えばサポートしてくれる人、パートナーである人が必要なのです。小学生くらいまでの子どもにとっては、どの子にもやり抜くための必要条件はあると思っています。実際は話が出来なくてもそばにそういった人がいると思うだけでもよい結果を生む時があるのです。幼稚園、保育所の先生や小学校の先生や友だち、家庭では親や兄弟そして、祖父母、親戚がその役割を担っているのではないでしょうか。やり抜く子どもを育てるにはサポートしてあける環境を用意することと、よき相手のパートナーであることが大切だと思います。 今回は「やり抜く心理」と「投げ出す心理」について述べてみます。

ごこう幼児教室/御幸 照美

1・やり抜く子どもは「自ら取り組む意欲」を持っている

 やり抜く子どもは、全てにわたって自ら取り組む意欲(挑戦力・学習力)を持っています。そう考える根拠について自ら取り組む子どもの特徴をあげて説明します。

一つ目は「挑戦する」という特徴です。これは、子どもが取り組む時、今までよりも少し複雑な問題にチャレンジ(挑戦)するという特徴です。

難しい問題、複雑な問題に出会ってもそれに挑戦し、それをなんとか解決しようと努力することです。挑戦するという特徴を強く持っている子は、たとえ学習(おけいこ)以外の困難な問題に出会っても、それに対して果敢に挑戦でます。さらに言えば、そういった困難に立ち向かわされた場合でも、その困難を自分が成長できるよい機会であると捉えることができます。その子は間違いなく自分の人生を健康にそして楽しく生きられる人となるでしょう。

 二つ目の特徴は「自分でやり遂げる」ということです。これはやり抜く子の特徴そのものといえるでしょう。自分の力を信じ、自分の力で解決しようとするのです。でも「自分の力で」とは言っても、場合によっては自分ひとりの力では解決できない問題もあります。そのような時には、他者の援助、支援を求めることも必要になってきます。他者の援助を求めることも本当は自分の力です。援助が必要と判断し、実際に他者の援助を求めるスキルあったという意味で、それはその子の力といえるのです。子どもがどの様な時に親や祖父母、親戚そして先生や友だちに援助の要請が出来るのか。この問題も課題になるのです。

 三つ目は「情報を集める」という特徴です。これは問題のよりよい解決のために必要な特徴です。平易な問題であれば今までに得た情報だけで大丈夫だと思います。しかし、難しく、複雑な問題に立ち向かう場合には新しい情報が必要です。やり抜く子どもというのはまさに一人でやり抜くためにそうした情報を収集できる子どもなのです。 

 最後の四つ目の特徴は「取り組むことが楽しい」ということです。

取り組むこと自体楽しくなければ、子どもは取り組み続けることは難しくなります。これは大人にも同じことが言えると思います。したがって、やり抜く子どもの場合、取り組みそれ自体が楽しいということが重要になってきます。やり抜く子と言えば、困難な問題に立ち向かい、悪戦苦闘して何とかその問題を解決する子どもをイメージに持っていたのではないでしょうか。それは誤りであると思います。やり抜く子と言うのは本来楽しく学ぶ子と言えます。

 以上、自ら取り組む子の特徴を説明してみました。

 

2・投げ出す子は「外発的な取り組みの意欲」にとどまっている 

 「投げ出す子」とは一体どういった子どもでしょう。やり抜く子が自ら取り組む意欲を持っているとすれば、投げ出す子は「外発的取り組みの意欲」を持っていると言えます。そこで外発的取り組みの意欲についてもその特徴を二点ほど述べておきます。

 一つは、“外発的”という言葉に的確に表現されているように「他者からやる様に言われないと取り組まない」という特徴です。具体的に言えば、先生や親から「取りかかりなさい」といわなければなかなか取りかからない特徴です。取りかかったとしても、仕方なくといった感じは拭えきれません。誰もが何も言わなければ、または誰もが取りかかりへの暗黙のプレッシャーをかけなければ、この特徴を持つ子どもはなかなか取りかかろうとはしません。したがってこのような子どもは、とりわけ複雑で難しい問題でなくても、外からのプレッシャーが感じられなくなれば、容易に問題解決を放棄してしまいます。このような子は「投げ出す子」であると言えるでしょう。

外発的な取り組みの意欲のもう一つの特徴は「報酬がないと取り組まない」ということです。

親が「やりなさい」といってもなかなかやろうとしない子どもの場合、親が次にとる手段は「報酬(ごほうび)」の使用だと思います。お小遣いを上げるからやってごらん」とか「今度のテストで90点以上取ったらお小遣いを上げるよ」「この仕事を最後まで手伝ってくけたらゲームボーイを買ってあげるよ」等々です。つまり、魅力的な報酬を約束して取り組ませる方法です。この方法は、子どもにとって報酬が魅力的であれば当初はうまくいきます。つまり、取り組みへの動機づけは高まります。しかし、しばらく当該報酬を続けると、子どもはそれに慣れてしまい、もっと魅力的な報酬でないと動機づけは起きなくなります。報酬をやめることは論外になってきます。報酬をやめれば子どもは全く取り組まなくなるでしょう。親としては、取り組みへの動機づけを高めるために「報酬(ごほうび)」という方法を使ったわけですが、結局その目的は達成できず「報酬(ごほうび)」への依存性だけを形成して終わるのではないでしょうか。この場合も、報酬がないと簡単に「取り組み」や「やり抜く」気力を放棄してしまうという意味で、外発的意欲を持つ子どもは「投げ出す子」であると言えそうなのです。

 

3・面白さに気づかない「投げ出す子」

 「投げ出す子」は外発的な「取り組み」の意欲を持っている子であると述べましたが、それではどうしたら投げ出さずに「やり抜く子」になれるのでしょうか。このポイントを三点ほど述べてみます。

投げ出す子(外発的な取り組みの意欲を持つ子)の特徴として次のようなことがあげられます。

 @他者からやるように言われないと取り組めない。

 A報酬がないと取り組めない。

 B取り組むものに面白さが沸いてこない。

 

投げ出す子に、なんとか取り組ませ、その中に「面白さ」を発見することができれば、やり抜く子になるかもしれません。

人間はもともと知的好奇心の芽を持っているといわれています。

どの子にも「面白い」と思うことがあるはずです。それが取り組みの中で発見できれば、やり抜く子になると思います。そして、それをサポートするのが親であり、祖父母であり先生であると思います。

小学校高学年以上になれば、大切なことであるとか、将来必要なことであると説得すれば頑張れる子どももいますが幼児や小学校低学年の児童はまず無理な要求と言えるでしょう。何よりも興味を引く面白い「取り組み」でないとやり抜く姿勢はつくれません。

 

4・目標が持てれば「やり抜く子」になれる

 目標(目的)意識が強ければ強いほどこれに比例してやり抜く意欲も強くなるようです。子どもたちの意識を分類すると

 @面白い、楽しい。

 A将来こうなりたいと現実的な夢を持っている。

 B親を初め、周囲の人々(仲間)に認められたい。

Cよい結果を得たい。                        

等々があげられます。

Aの「将来こうなりたいから」というのは、憧れの小学校や中学校に入りたいとか、立派な人になりたいといった具体的な目標も子どもの夢といえるでしょう。幼稚園児ではまだ難しいと思いますが高学年になると、将来の夢がさらに具体化してきます。それは、それまでの自分を見つめ、自分の興味を明確化し、自分の適性(よい点)を理解できるようになるからです。

幼児の場合は、将来の夢(目標)はまだ現実感に極めて乏しいものです。そこで、夢を達成するために、より身近な目標を持たせる工夫が必要になってきます。例えば、

「自分の描く絵を展覧会に入選させたい。」「今度の工作も先生から、友だちから誉めてもらいたい。」という目標を持っているとすれば、そのために頑張り、やり抜く気持ちがわいてくると思います。つまり身近で、そして実現性のあるものから興味と目標を持たせてあげることが大切になります。その環境作りが家庭においては親であり、親は、よりよいサポーター、パートナー役でなければならないと思います。

 

5・自分に自信がもてれば「やり抜く子」になれる

 もう一つ大事なことがあります。やり抜く子に育てるには、「自信を持たせる」ということです。

 自分に自信を持っていれば、多少の失敗など恐れずに頑張れる子どもになると思います。内容を十分理解させること、成功経験を十分持たせることが大切でしょう。また、子どもの才能(潜在的能力)に気づいたら、それを子どもへの期待として表現してあげるのも効果的と考えられます。

「難しいのがよくできたね。」「お話をよく聞いてくれたね。」と成功経験を言葉(文章)で表して誉めること。そして「本当は力があるんだ。期待しているよ。頑張ろうね。」というような激励は、その子の能力を認め、期待を示したという点で評価できる激励と思います。他児との比較による評価(相対評価)ではなく、過去の成果との比較による評価(絶対評価)も自信をつけさせるには有効に働きます。

 

6・発達を見守る親・大人の姿勢

 乳幼児期からの多様な社会化を身につけていく、スモール・ステップの達成感の積み重ねが、学童期以降の「やり抜く力」につながっていくと思っています。

「やり抜く子−投げ出す子」といっても、実にさまざまです。最初からやり抜く力が弱いのではなく、対象への興味、関心が全く無いか、あるいは失われた結果として投げ出している場合があります。また、課題が他者から押し着せられて動機づけが低い場合もあります。そして、失敗を過度に恐れて、ちょっとした困難に直面すると回避してしまう場合もあるのです。

これらの事象が子どもだけの要因によるものか、課題や環境に問題がないか等々綿密に検討し、その子に合った援助法を工夫する必要があります。

その際、子どもがどの様に育ってきたかという情報は方向性や援助を模索するための判断材料になります。

子どもは知的好奇心や冒険心が高いです。その一方で、人は生きる中では成長とともに諦めなければならないことが増えてきます。現実をきちんと吟味した上で諦めを受け入れ、それでもなお、よりよくありたい気持ちを内在化していけるような援助が求められます。やみくもに、「やりなさい」「やり抜きなさい」を連呼するのではなく、やり抜いた後のフォローを丁寧に行うことが大切です。失敗した場合でも、その事実を大人が回避したりごまかしたりすることなく、子どもと共にきちんと向き合うゆるぎない姿勢が重要です。健康な自己愛や効力感を育むには失敗も必要な体験と考えています。

失敗したくやしさを共有し、子どもが次への展望を見いだしていける希望を持てるような関わりが大切と思います。さらに、なかには欲求に応えられない状況(制限)があることを、毅然とした態度で伝えることも、現実吟味力や、状況判断力、そして心理的耐性を高めることにつながります。

 発達には個人差があります。子どもの発達に合わせて、例えば靴ひもの結べない子どもには、マジックテープつきの靴を与え、自力で履ける体験の場を提供し、自ずとひも靴に挑戦したくなる気持ちを引き出すような、手作りの援助を模索する姿勢が必要であることは言うまでもありません。

 

7・「投げ出す子を生み出す原因」

「投げ出す子」の場合は、何をどう投げ出すかの定義が曖昧な面があります。そこで、広辞苑で調べて見ると、「投げ出す」とは「事実が完成しないうちにあきらめてしまうこと」とあります。また、「あきらめる」とは、「仕方がないと断念したり、悪い状態を受け入れたりすること」とあります。これらの定義から「投げ出す子」は、例えば困難に立ち向かう心的エネルギーや体力がない、面倒くさがる、あきらめが早い等々とイメージできます。

また、そうした子どもを生み出す原因として真っ先に思い浮かぶのは、親の過干渉があげられます。

・「子どもがする事を親が決める。」

・「常に子どもに手助けいる。」

・「全ての結果に親が口出しする。」

・「親子で意見が違う時、親の意見を優先させる。」

などは、明らかに親の過干渉で、やり抜く力は育たず「投げ出す子」になる可能性が高くなります。

 その他に「投げ出す子」の原因として、近年食品に注目が集まっています。食品添加物や栄養の偏りが子どもたちの集中力や注意力を削いでいると言われています。イギリスのいくつかの学校では、家庭での食事や給食から食品添加物を追放することで子どもの集中力が高まったと報告されており、給食にこれらを追放している学校も数多くあると聞いています。

 このほか、幼稚園、学校、子ども集団などから多様性や困難さ、危険な要素といったものが取り除かれ、いわば純粋培養されることで子どものたくましさが失われているとも言われています。さらには、子どもだけでなく大人社会全般が「投げ出す」傾向を強めているのだという説もあります。

 

 

8・人間的やりとりこそ子どもは夢中になれる

「夢中になれる力」とは「深い意味でのコミュニケーション能力」と思っています。「コミュニケーション能力」とは「言語による対話能力」と同義ではありません。人間的な全ての感覚と表現を駆使して、他の人間および大自然の営みを含む事象と感情や情報のやりとりをする能力。  これこそがコミュニケーション能力にほかなりません。それは基本的な信頼が形成される乳児期に端を発しています。乳児期に親(または同等の保護者)との間で適切な交流が体験できなかった子どもは、顕在的または潜在的にコミュニケーション能力が不足する結果となりがちです。

 こうした場合には、親を含む他者と連携しながら何事かに熱中し成し遂げる力は獲得し難くなると考えられています。

 私たちが、本当の意味で人間的な能力の全てにおいて夢中になるのは、まさしく人間的なやりとりにほかなりません。たとえば乳児が「笑う」というアクションを発したとき、親が「あやす」というレスポンスを示すなら、乳児は「笑えば、あやしてくれる」というやりとりに熱中します。熱中するのは、テレビで見るアニメのように一方通行の刺激ではなく、アクションに対して変幻自在に応じてくれるレスポンス、意外性に富んだ刺激となるレスポンスがあるからです。

石壁相手のボール投げは、前提として何らかの強い目的意識が保持されていなければ熱中できるものではありません。しかし親子間のキャッチボールなら小さい子どもさえも熱中します。やはり、親が子に向かって何かのアクションを起こすことが子どもを夢中にさせる方法と思います。

乳幼児に始まる「笑う・あやされる」が象徴するやりとりによって十分な愛着性が形成された子どもなら、その後の発達において安定的な心理状態を獲得しやすいのは明らかでしょう。

安定度の高い心理は高いレベルの集中力が前提であり、不安定な心理にこの種の集中力は期待しにくいといえます。

 

9・親子で夢中になれる手立て

ここでは幼児から小学校低学年の年齢の子どもを念頭に置いて「親子で夢中になれる」家庭のあり方を整理して述べてみます。もちろん同等の手立てはそれ以上の年齢にも応用できますが年齢が高くなるにつれて、「親子がともに夢中になれる力」を育むのは困難になるのが通例です。

 

〔親子で夢中になれる時間を過ごせる家庭〕

@親が子どもの意欲を先取りしない家庭。

A無理のない目標を設定できる親。

B達成された部分を評価する家庭。

C親は場合によっては、裏方、半歩後ろのポジションを堅持できる。

D親が、心・身の労を惜しまない家庭。

 

親、大人がこの姿勢を徹底して保つ家庭で育つならば、子どもは、それぞれの潜在能力に応じた最大限の集中力を発揮するものと思っています。

子どもが発達段階と個性に応じてどの様な物事に興味を示し、移って

いくかを、親はかなり的確に予測できるのが普通です。そこで、子どもが新しい興味対象を子どもの目前に準備するのは簡単であり、特に知性偏重傾向の強い親にこれが行われやすいのです。しかし、自発的な意志が表現される前に準備された事象は、子どもの意欲を喚起しません。意欲が喚起されなければ夢中になれるはずがありません。

つまり、「意欲・欲求の自発を待つ」ことこそがきわめて重要になっきます。

 

10・子どもの力を育てる「叱り方」

(イ)子どものやり抜く力は親が育てる

人間は、元来自分のやりたいこと、好きなことは夢中になって、誰に言われなくても好きなことでも困難を感じると、途中で投げ出したり、逃げ出したりしがちです。よい例が「おけいこ」であり「勉強」であると思います。好きな課題でもあればまだいいのですが興味がもてないと全て中途半端に終わってしまいかねません。そんな時、励ましながら、子どもの前進を見守るのは親の仕事ではないでしょうか。そして、親がその役割を果たそうとする時、親と子の間に強い心の絆が必要となってきます。子どもが自分の興味のわかないものにそれでも取り組もうとするのは、励ます親との間に強い絆があるときだけです。「お前の将来のために」などといってもそれは通用しないでしょう。子どもが小さいほど、将来のことなど考える力はありません。ところが、「大好きなお父さんが、お母さんがそう言うから、一緒にやってくれるから」という理由なら、やる気になる可能性は高くなります。つまり、やり抜く子どもを育てる家庭は、普段から親子関係のいいことが条件になります。それは普段から子どもを叱ることや小言の少ない家庭があげられます。子どもだけでなく私たち大人も、自分に対して小言を言ったり、常に叱ったりする人とは親密な関係は持てないのです。そこで、ここは、普段から子どもとよい関係を保ち、いざというときにきちんと子どもを励ましたり、叱ったりすることのできる親でいるために、普段から上手に叱る心がけが必要なのです。

 

(ロ)子どもを叱るとき

親が子どもを叱るときはどんなときでしょう。考えられる状況はいくつかあります。

 

@子どもが自分自信や周りを傷つける可能性のあることをやっている。

A周りの迷惑になる言動がある。

B親の言うことをきかない。

 

この三つの状況の中で、幼児に怒って効果のあるのは@だけです。つまり、子ども自身が危険なことをしているとか、誰かを危険な目にあわせている時は、すぐにその場で怒ることが大切です。子どものしつけで重要なのは意味のある時に限るべきでしょう。AとBについてはほとんどの場合叱る必要はありません。怒るのではなく叱り、会話によって子どもに何がいけないのかを噛み砕いて聞かせ、促すことです。このことは、冷静に正確に伝えなければならない場面です。「会話によって冷静に、正確に何がいけないのかを伝える」ことは、怒ることと同じであると思われがちですがそれは全く別物になります。

私たち親が叱ることと怒ることを基本的に区別できていないため、叱るとなると結局怒ってしまい、叱る目標が達成できない場合が多いのです。

特にBの理由で子どもを叱るときは、ほとんどの場合が親は感情的になり、いつのまにか怒っているのです。

 子どもが親の言うことを聞かない時、また親の思い通りに行かない時、親は腹を立ててその怒りを子どもにぶっつけているように思える時がります。ところが、親の腹立ちをどんなにぶっつけてもそこには何の教育的効果もありません。反対に子どもを傷つけ、反発心を持たせてしまうのが関の山です。なぜなら、本来叱るというのは、子どものためにやることであり、親の怒りを発散させるためのものではありません。まして、その碇を使って子どもを思い通りに動かすためのものではありません。子どもはその違いを鋭く感じとることが出来ることを親は認識して欲しいのです。

子どもを叱るとき、親はそれが誰のためかをしっかり見極めることが必要です。それが、子どものためでない限り、子どもにうまく伝わらないと知ることが大切なのです。結局、親の都合で、親自身のために腹を立てて怒っているだけであることが伝わってしまうのです。

 

(ハ)誉めることとは・・・

一般に誉めることは大切だといわれています。しかし、ただ単に誉めるだけでは、望ましい生活習慣を支え、子どもの身辺自立を促していくことは難しいと思います。例えば、「すごいね」、「えらいね」や「がんばったね」といった言葉が誉める言葉としてよく用いられています。しかし、こういった言葉は、何がどのように「すごい」か、あるいは「えらい」、そして何がどの程度「がんばった」のか充分に表現されていない場合が多いのです。そのために、子どもとの関わりが充分でなく、子どもを良く見ていなくても、「すごい」「えらい」「がんばった」と言って誉めることができます。そういったことも影響してか、誉めることを重視して関わっている場合には、知らず知らずのうちに、子どもへの関わりが手薄になってしまうことが少なくありません。親は誉めているつもりでも、子どもは親がしっかり関わっていないことを鋭く感じ取るものです。親が誉めているつもりでも、子どもは決して誉められているとは感じていないこともよくあるのです。

このような落とし穴に陥らないためには、子どもを誉めるのではなく、子どもの良い所を具体的に正確に子どもにフィードバックするように努めることが大切です。こちらの感じている肯定的な気持ちは、非言語的に自然に伝わっていくため必ずしも必要ではありませんが、「うれしい」「楽しい」と表現し伝えることも重要です。

例えば、「お母さんが何も言わなくても、自分から歯を磨きに行ったでしょ。そういうのがすごくうれしいわ」とか、「○○ちゃんがお母さんのお料理を手伝ってくれると、一人でするよりすごく楽しいわ」などといった言葉を使って子どもに深く関わっていくことが大切です。

 

 

(ニ)叱る前に話し合う(望ましくない習慣を直す)

身辺自立の行動に関しては、生活体験を多く持てば持つほど望ましい習慣が身につきます。しかし、望ましくない習慣が身についてしまい、そのことが障害となって身辺自立がなかなか進まないということも生じることもあります。例えば、食事の後にテレビゲームをする習慣がついてしまい、歯磨きがおろそかにする習慣です。

こういった状況でも、前述のような関わりは大切です。さらに工夫をして関わっていくことが必要です。

まず、頭ごなしに叱るのではなく、子どもときちんと話し合い、基本的なルールを子どもと一緒に作ることが第一歩です。話し合いでは、なぜ歯磨きが必要なのかをきちんと理解させ、その上で、望ましい行動を具体的に定めることが大切です。できるだけ短いルールとして明文化し、場合によっては文章として残しておくことも効果的です。

ルールは実現可能で合理的なものにしなければなりません。

 

例えば、

・食後30分以内に歯磨きをする。

・お母さんが歯磨きをするように言うのは一回だけ。

     約束が守れなかったら次の日のデザートはなし。

 

ルールは例外なく適応して、淡々と進めていくのが原則です。感情的になったり、駆け引きをしたりするのは、逆行であるばかりでなく、せっかく決めたルールは崩れてしまい、「約束事の遵守」の観点から好ましいことではありません。

ルールがきちんと運営されることによって、ある程度は、好ましい、望ましい行動が生じるようになると思います。しかし、身辺自立の行動がきちんと身につくには、ルールだけでは充分でないことも予想されます。繰り返しになりますが、望ましい行動を子どもと一緒に行なう中で生活体験が共有されることが、望ましい生活習慣を形成していくのです。 

ルールを運営していくだけでなく、子どもの望ましい行動に積極的に関わっていくことが重要になってくるのです。

 

11・自分で決めてやり抜く目標、与えられた目標

(イ)自分の目標は自分で決めさせるべきか、与えられるべきか

「自分で決めてやり抜く目標」と「与えられた目標」の違いは、目標を立てるときに自分で決定しているか、それとも自分で決定する自由が与えられていないかの自己決定の有無の違いです。このことは、目標に向かって自分を動機づけていく行動、すなわち内発的動機づけに影響してきます。私たちの周りの人々や自分の過去の経験を振り返ってみても明らかです。しかし、これにはいくつかの理由がかんがえられます。

まず他者から「与えられた目標」は、自分の興味、関心を引くものではありません。また「与えられた目標」は自分の現在の能力を考慮せずに設定されることも多いのです。実力を超えるような目標を課せられても失敗することが予想されてしまうため、やり抜く気持ちが湧いてきません。むしろ投げ出したくなる気持ちが強くなってきます。また、他者が目標を与える状況は、他者は、目標を達成できたときは褒美を、できないときは罰を与える状況であることが多いのです。この状況の下、子どもはやり抜くべきか、投げ出すべきか心の葛藤が起こるのもしばしばです。

幼児の場合、「自分で決めてやり抜く目標」はつくりにくいものです。そうであれば、何が出来て、何ができないのかを親子で話し合い、で

きる可能性のある目標を与え、少しずつその程度を高めていく配慮が親にとって大切と思います。そして、適切なアドバイス、支援によって導いていくのが望ましいのです。

 

(ロ)他者の果たす役割

目標の決め方と目標に対する動機づけにおいて、他者はいくつかの役割を果たしています。まず重要な他者は子供たちを評価する存在であることです。幼児期から児童期にかけての子どもの自己評価は、重要な他者の評価と直接に結びついています。重要な他者によって「与えられた目標」は、達成することによって他者からの好ましい評価を獲得し、それを通して有能感や肯定的な自己概念を導く機会として重要なのです。

子どもたちはまさに、親や先生に誉めてもらうために「与えられた目標」に向かって努力するのです。しかし、小学校高学年ともなると「誉められたいから」という学習動機は、望ましくないものと考えられます。

学習の内容自体に興味を持ち、自ら主体的に学ぼうとする姿勢を持つこと、すなわち学習が内発的に動機づけられることが重要とされるからです。

家庭や幼稚園、学校が学ぶことに対する価値を強調するとき、子どもがそれを自身の価値として内在化していくプロセスは社会化の過程です。学習の動機は、「ごほうび欲しさ」から、「他者が誉めてくれる」、「周囲の人が喜んでくれる」そして「自らの興味に従って」と社会化の段階を追って変化していきます。その際、親や周囲の大人たち、そして先生が社会化を導く重要な役割を担うことになります。

 「与えられた目標」が「自分で決めた目標」へ、外発的な動機が内発的な動機へと変化していく過程です。この変化が普遍的な発達の様相であるとすれば日本の子どもたちは、母親への依存度が高く、自立性に関しては未成熟と言えるでしょう。しかし、文化、社会、習慣が異なれば社会化の方向性も異なります。最近は、文化による「自己」のあり方の違いが注目されています。欧米文化に生きる人は、他者から独立して存在する自立した自己へと志向しますが、アジアや南米の文化に生きる人は、他者と協調し関係性の中に埋め込まれ自己へ志向するという見方です。

 

 (ハ)やり抜く力を生み出す目標づくり

子どもは本来「やる気」「やり抜く力」を持っています。心身ともに健康な子どもは、新たな事柄に次々と挑戦していくことに喜びを持ちます。

新たな課題を示されたときに、多くの子どもは与えられた目標に向かって「やる気」「やり抜く力」を出して自発的に取り組もうとし、努力します。また、その子なりに努力したことが認められた時に、満足感を味わいながら、次の目標に向かうエネルギーを体の中に蓄えていきます。また、目標が達成され、充実感を味わうことができた子どもは自信と力を得、いっそう「やる気」が出てくるとともに、より高い目標を掲げて頑張り、やり抜くことが出来るようになります。

ところが大人から与えられた課題に取り組むことのできない子どもがいます。自信がなかったり、投げやりになったりする場合が多く、示された目標を自らの目標として努力できない心の状態になっているのです。加えて、その子なりに努力したにもかかわらず、目標が達成できないことを叱責されると、心の状態をいっそう荒れさせ、さらに努力できない状態に追い込まれることになります。無力感を味わうことにもなり、自信を失ったり、無気力になったりしてやがては、投げ出すようになるのです。

 

(ニ)目標が持てた喜び

人生にはさまざまな目標があります。人が幸せに生きるには、自分がどんな人間になりたいのか、といった信念や信条を目的として持ったとき、安心感と誇りで自己実現を志していきます。そのためのやる抜く力も出てきます。

価値観にもっとも影響を与えるのは両親であり祖父母でありその子をとりまく親戚であり大好きな先生です。好きな人のようになりたい、と願い、励むものです。両親が常に否定的に、悲観的に、悪意で接し、答えるか、それとも子どもにプラスの影響を与えるよう努力しているかで大きく人生が分けられるといっても言い過ぎではありません。常によき面、できること、あることに有り難味を添え教育する姿は、子どもの細胞にまで沁み込み、前向きに伸びていけるエネルギー、命の力の宝庫となります。

自分が好き、大事、と思う自分を育てる力のある人は、両親から好かれ、祖父母、親戚から好かれ、先生からも好かれ、大事にされ、味方されます。正当化されていると実感します。

身体の栄養は、水や空気、五大栄養素であり、誰が食べさせても、体内時計が五歳になれば五歳の成長をさせてくれます。ところが、内面の意欲や思考力・判断力といった精神力の成長を育てるには何が栄養でしょうか。

伸びる子の共通点にも通じるように、「よろこび」に優るものはありません。

子どもに手伝う心、おけいこをしたくなる思いを高めるには、喜びを感じさせることにつきると思います。

一体どうしたら与えることができるでしょう。

子どもを逆につらく、悲しく、淋しい思いにさせていないでしょうか。

ガミガミの罵声では育ちません。

私たち大人の幼児に対する言葉かけは極めて大切な役目を持っています。対話の重要性、一言一句の影響を考えて接しなければと思うのです。

                                 

12・「おけいこ」習慣を身につける

「おけいこ」が身についている子どもは、自分からおけいこを進めるばかりでなく、自分の生活が主体的に送れるということです。

「おけいこ」することが楽しみであり、その楽しさを追求しているうちに自然におけいこ習慣が身につき、力がついていくものです。そのために、子どもが小さいときから、「自分のことは自分でやる」「自分のしたことは自分で責任をとる」「やらねばならないことは必ずやる」というけじめのある育て方をしないと、この習慣作りは難しいでしょう。ややもすれば「小さい子どもだから」「つらそうだから」と、大切な子どもが嫌がれば回避させてしまう事態が重なると、この習慣はつきにくく、やり抜く力はつかなくなります。

教室でみんなとおけいこするのも楽しいという体験を子どもたちにたっぷりとしてもらいたいものです。

子どもがおけいこ習慣を身につけるには、家庭における望ましいおけいこ環境をまず整える必要があります。「孟母三遷」では、母親が住環境を捜し求めていましたが、今日では住環境を外的な環境とするならば、内的環境として、家族の生き方、家族の人間関係、家族の諸問題等が重要な要因となるでしょう

 

13・お手伝い

(イ)食卓の準備のお手伝いをさせていますか?

食卓の準備が遅れると、お腹も空いてきます。

お母さんが準備して全てが整うまで家族は待っていますか?それともお手伝いを分担して準備していますか?

出来ることなら、家族一人一人が責任を持ったお手伝いを受け持ち、準備、後片付けをした方が子どもの家庭教育によい方向づけになります。食卓の準備が遅れれば食事も遅れることを子どもなりに理解するようになります。食事時を遅れないようにするために子どもは積極的に手伝うことは明らかでしょう。

食卓の準備のお手伝いは年齢の幅が広く、三歳の子には三歳の子にふさわしいお手伝いが、五歳の子には五歳の子にふさわしいお手伝いがあります。責任を持ったお手伝いをしなければ食事が出来ないということになります。子どもはなんとしてでも短時間にやり抜かなければという気持ちを強く持つようになるでしょう。ここでお父さんが支援したりお母さんが支援したりするとお手伝いへの責任感ややり通す力は薄らぎます。出来る所からの、身近な所からのお手伝を一人ですることによって子どもは「やり抜く力」を身につけるようになります。

食事の準備、後片付けは家族の共同作業の一つと捉え、父親も見合った準備を、後片づけを積極的にしないと子どもに対する説得力を欠くようになるでしょう。子どもが成長すると、やがて、料理にも興味を示すようになり、料理作りのお手伝いもするようになるでしょう。そして「食」に対する関心を持ち始め、健康の源はよい食材(無農薬、無添加剤、無着色)での料理作りのお手伝いに参加する気持ちになってくるでしょう。勿論、食事への感謝を持つと同時に、偏食もなくなるでしょう。小さい頃の生活習慣は大人になってから遺憾無く発揮するようになります。

 

執筆後記

子どもたちの「やり抜く子、投げ出す子」は両極端の姿を現しています。わたし達親も大人も「やり抜く子」を求めがちです。そこには、努力する意志や態度が含まれており、好ましい方向に子どもは向いていくでしょう。

しかし、このような子どもにも、時に<もうやりたくない>,<もうやめた>、<やる気がしない>など「投げ出す」こともあります。子育てをしていく上でこのような状況がよく見られるのではないでしょうか。

当然、最初から投げ出す子は問題ですが、途中であきらめる、物事を中途半端にしてしまう子が増えているように思います。

一度やりはじめると、面白くなって次から次へと自分でやりたいことを求めていくのは子どもの本質のようなものです。やり抜く子は、この体験の楽しさを味わうことが出来ます。ここに健全な子どもの姿、親や大人が期待する子どもの像があります。この子どもたちは、自分から次の課題を発見するエネルギーも身につけていきます。やりとげる喜びも知っています。

投げ出す子は、これとは逆の体験をするのは明らかです。投げ出すことによって、自己嫌悪に陥り、無気力、無感動、無感激、無関心になります。せっかくの自己成長の機会を失うことさえあるのです。

     批判ばかり受けて育った子は、非難ばかりします。                           

     敵意に満ちた中で育った子は、誰とでも争います。

     心の寛大な両親の中で育った子は、我慢強くなります。

     分け隔てされて育った子は、懐疑心がつよくなります。

     励ましを受けて育った子は、自信を持ちます。

     ほめられる中で育った子は、いつも感謝することを知ります。

 

       

参考文献と引用:櫻井重雄「子どもの不安とその克服」教育出版

:中村睦美「人格発達−幼児期まで」新曜社

:金子書房「児童心理」

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