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叱り上手は誉め上手

子どもを叱って育てるか、誉めて育てるか、昔の親はどちらかと言えば前者でした。親も近隣の大人も、先生もやたらに子どもを叱るので、子どもは毎日どうしたら叱られずにいられるかと大人の機嫌に細心の注意を払って生活してきたと思います。
かく言う私も、時代的な背景もあって、67歳になった今でも激しくそして厳しく叱られたことの三つや四つは鮮明に記憶しています。

戦後イギリスの教育者ニィルの「叱らずに子どもを育てる方法」(霜田静志訳)が話題になったことを考えると、昔の親は叱りすぎる子育てを少なからず苦にしていたのかもしれません。
「子どもに対する一切の強制的課業と抑圧を排除し、自由こそが子どもたちの幸福のための原理である」と説いているのです。

半世紀を過ぎると、いつの間にか子どもがめったに叱られることのない時代へと移り、叱られた経験の少ない親が子育てに入っている今日、叱り方もわからずオロオロする大人たちが増えているように思います。

叱ることと誉めることはどちらが難しいでしょうか。誉めることは誰もがあまり考えずにいるようですが叱ることとは諸刃の剣で、上手に叱ればしつけや教育の効果が生まれます。下手に叱ると、効果が上がらないどころか、人の心を傷つけ、人間関係を損なうことにもなります。また、叱り下手の極限は「虐待」と名づけられる行為かもしれません。隣り合わせに体罰の「虐待」があるように思えます。

誉められることは何歳になっても人を幸せにします。また、「叱る」ことは、「私はあなたに関心があるのよ。あなたを心配しているのよ」との大人の気持ちの表現です。そして叱りもせず誉めもせずという無視に人は一番傷つくように思います。であれば「叱り下手」を恐れずに出来れば「叱り上手は誉め上手」でありたいものです。今回の「叱り上手は誉め上手」をご一読されて親の子に対する姿勢に何かご参考となれば幸いと思っております。

            ごこう幼児教室/御幸 照美

 

A・社会との出会い

しつけとは、「つくりつけること」であり「礼儀作法を身につけさせること。また、身についた礼儀作法」と広辞苑にあります。その意味の内実は、自分の内側で自然に育つというものでなく、まず外側から与えられることによって人が身につけていくものであるということでしょう。自分の生理的欲求にしたがって世間との関わりを開始した赤ちゃんは、親と大人の日々の関わりから、自分の欲求が叶うこともあれば、叶わないこともあるという現実に直面します。さまざまな体験をしていく中で、親や大人がある時には壁となり、子どもに自分の気持ちや気分だけではどうにもならないことがあるということを教えていきます。それは子どもが「社会」と出会うということになるからです。

今、大人(親)が子どもに対してどのように関わったらよいのか、わからなくなっている時代だと思います。その大人たちの困惑に深く関わっている要因の一つとして捉えられるのが、時代の流れにともなって生じた社会の変化が挙げられます。

一昔前までは、例えば、「弱い者や年寄りをいたわる」とか、「目上の人には敬意を払う」「人にあったら挨拶をする」など、何はどうする、何はどうしてはいけない、人前ではどうあらなければならないというような決まりが厳然としてあり、親も大人もそれに従って子どもたちをしつけてきました。「それはそういうものだから」という理屈抜きの(強制)力が社会の側にあったと言ってもよいでしょう。その意味では、かつては「枠が強固だった時代」であったともいえるでしょう。そのような時代には、好むと好まざるとに関わらず、その枠を受け入れるしかありませんでした。しかし相手の懐に入り込むから、相手のことをより正しく理解することができたともいえるでしょう。

 私たちは批判精神を持ちつつも行動として取り入れることによって、人々は社会規範の中にある本質、つまり「なぜそうするのか」「なぜそれが必要なのか」「なぜそうでなければならないのか」ということを体で受け止め自分の中になじませていったのではないでしょうか。
そう考えてみると、
しつけとは「形」から入って、それを自分たちなりに受容させていくと必要なものは取り入れ、不必要なものは削っていくという過程であると言えます。それは先に「理解ありき」ではなく、まず「形ありき」ということになるでしょう。

 

B・子どもたちの困惑と親の傷つき

 子育ての渦中にある親が一番強く願うことは、「子どもの自主性を伸ばしたい」とか「子どもに伸び伸びと過ごさせたい」というようなことの願望ではないでしょうか。そこで、その気持ちを「自分の好きなようにしない」というメッセージで子どもに伝えることが多いようです。

 私たちは、さまざまな決まりや規則に縛られ、不自由な中で成長しています。自分たちに課せられてきた縛りを解くことで、思いっきり自由に、好きなようにできる時空間を子どもに与えたいと考えたとしてもおかしいことではありません。しかし、この裏には社会規範を意識せず自由奔放に発言したり、行動したりするということになると社会やあるいは人間関係はうまく適合することが困難になってくるでしょう。

 

C・下手な叱り方・下手な褒め方

「今のはまずかった」と親ならば自分のしつけ方(叱り方)に心の中で一度や二度反省をした経験は少なくないと思います。ここでは上手な叱り方、誉め方を述べるのではなく、下手な叱り方、下手な誉め方を通して誉め方、叱り方を考えて見ることにします。

 

(イ)親たちの声

 

(ある父親A)
「口で叱ったぐらいでは聞くような子じゃないんです。痛い思いをしないとわからないんです。だから大声で怒鳴ったり、叩いたりするんです。それでも最近は慣れっこになって、もっと手厳しくしないと効き目がないんです。」                      

 

(ある母親B)
「よその子はおけいこもよく出来るのにどうして、うちの子はだめなんでしょう。おけいこも身が入らないし、何度教えてもうわの空で、情けなくなります。それで『あんたみたいな子はいらない!』と言ってしまうのです。そんな時、すごく後悔して、一晩中眠れない時があるのです。」

 

(ある母親C)
「叱り始めると、なかなか止まらなくなり、許せなくなるのです。いつまでも引きずり、気分がなかなか元に戻らないのです。子どもが平然としていると余計に腹が立って、別に悪いこともしていないのに、何かにつけ、当たってしまうのです。」              

 

(ある母親D)
「教育関係の本や先生は『誉めなさい』って言っていますが、うちの子は、誉められるようなことはしないし、誉めると図に乗ってしまうのです。こんな場合はどうしたらよいのでしょう。」        

(ある母親E)
「すごいね、と誉めると『そんな事言わないで』と言いながら答えたプリントをクチャクチャにして隠したりして、時間をかけてうまく描けた絵でもビリビリに破って見せようとしないのです。どうやら誉められるのが嫌なようです。」

                    

(ある父親F)
「誉められないからしない。誉められるからする。そのような打算的な考え方は嫌です。だから叱ることはあっても誉めることに抵抗があり、めったな事に誉めたりしません。叱ることはあっても・・・」

                     

『叱る』ことにも『誉める』ことにもいろいろな親の心が見えてきます。

本来、『叱る』も『誉める』も子どもが自分の責任を自覚し、人間関係の中で主体的に生きていくのを導き助ける、子育ての過程のコミュニケーションだと思っています。しかし、親たちの声を聞いていると、子どもの自己評価や主体性を無意識に傷つけ、生きる力を削いでいることが多いように思えるのです。そればかりか親子関係の不信感を強めている場合も多くあるような気がするのです。こうしたことは、何も特別な親子関係でなく、どこにでも見られる親子関係といえるでしょう。しかし、親自身の心に目を向けて、このコミュニケーションを見直すことも大切と思います。

 

(ロ)叱る心理

父親Aは、しつけと称して、子どもを意のままに支配しようとしています。子どもになめられないように、大きな声、きつい言葉、脅かすような表情や時には暴力(行動)を用いることもやむを得ないと考えています。

「しつけ」は支配でしょうか。

子どもを脅かさないと出来ないものでしょうか。

子どもを恐怖に追いこまないと出来ないものでしょうか。

興奮した親の言葉や暴力は、子どもに対して異常な恐怖感と緊張感を与えるのみならず他人への不信感を持ち始めるきっかけにもなりかねません。

良好な親子関係は時間の経過に伴ない望めなくなり、良い結果を得ることは出来ません。

脅しは、恐怖による服従を生じさせるかもしれません。見せかけの変化を強制することは出来るかも知れません。しかし、主体的な自己統制や責任の取り方を学ばせ、子どもの内側からの変化を実現することは出来るのでしょうか。ややもすれば、脅しは、子どもに嫌悪なイメージを与え、また、他者への不信感も強まり、不適切な行動の土壌を作ることにもなりかねません。

 

母親Bのように、何度も叱ったり、注意したりしても、同じ過ちを繰り返されると無力感に陥ってしまうと思います。

自分の話をいい加減にしか聞いていないと自分自身さえも子どもに過小評価されているかのように感じるかもしれません。そうなると、叱っていた内容よりも、自分自身を傷つけられたことで親は一層怒りを感じてしまうでしょう。

さらに、目についた表面的な行動を急いで変えようとする親は、子どもの言い訳を聞くことは無いと思います。同じ行動を繰り返す子どもをそれぞれの状況の中で観察するという手間を省こうとします。確かに、生命に危険のある行動の変化を急ぐのは当然です。しかし、多くの行動は、状況によって、また、子どもによって異なる意味を持っていることを忘れてはなりません。そして、ここにこそ、変化が起こらない理由や、逆に主体的な変化を起こすヒントが隠されているのです。残念ながら、忙しい親には、行動の変化の方が重要になってしまい、その結果、抱かなくてもいい無力感を味わっているように思えるのです。

いくら言ってもわからない子どもに「よその子」や「他人の子」を持ち出せば、なんとか自覚を持たせ、あるいは、少し発奮させることが出来るだろうと思う親も母親Bだけではないと思います。

私たちは昔の偉人の例を出しても、子どもが自覚を持つはずなどないことを知っています。しかし、親たちのこうした試みは子どもの心を不必要に傷つけます。それだけでなく、大人の心を罪悪感に満たすことになります。

ある子どもは、「母さんは『よその子』なんて本当は知らないんだよ」と見破っていました。また、「うちの親が言う『他人の子』があたしの側にいなくてよかった」という子どももいます。『よその子』や『他人の子』は、情報過多の現代社会が大人たちの心につくり上げた、「大人の都合のいい理想像」なのかもしれません。実在するか否かは別にして、親たちは自分たちの期待や要求水準を託した『よその子』や『他人の子』に注目するあまり、目の前の子どもの成長を彼らとの比較でしか眺められなくなっているのではないでしょうか。       

子どもを見ていない親の声が、その子どもに届くはずがありません。

母親Bのように子どもを怒鳴ってから「しまった」と感じる親も少なくないはずです。そして、簡単に謝れる親はそんなに多くはいません。親といえども人間です。感情の高ぶることもあります。叱り方がまずかった場合だけでなく、叱っている内容が思い違いだったことに気づく事もあります。しかし、親としての自尊心(プライド)からなかなか謝ることが出来ません。『親が謝ると、子どもは親を甘く見るようになる』などと変な親のメンツを考えるからでしょう。

 

また、母親Cのように怒った後、子どもを許すタイミングがうまくつかめないこともあります。ここで許すと子どもが「図に乗るのではないだろうか」、「懲りないのではないだろうか」と思ったりします。その結果、いつまでも腹が立った気持ちを引きずり、子どもの方からきっかけをもらわないと気分が元に戻らないこともあります。

子どもを叱っている親たちが常に正しいとは限りません。私たちは自分もまた過ちを犯すことを知っているはずです。

私は、小さい頃、ひどく叱られた後に、許してくれた時の事や、親が自分の非を認めて謝った時のことを今でも鮮明に覚えています。どちらの体験も、決して帳消しにするものではありませんでした。むしろ、どんな人間も持っている弱さやだめな部分を正直に認め、それでも信頼し合えることや、自分で自分に責任を持って生きることの重さを教えられました。親が自分の弱さやだめな部分をごまかそうとしていると、許したり、謝ったりすることが不得手になります。親が子どもを叱るのは、親が完璧だから、ではありません。もしかしたら、人間の弱さや不完全さを知っている人物だからこそ、叱ることに意味があるのかもしれません。

子育ての経験を持った私が、今でも覚えている父親に言われた言葉に『許すことは勇気のいること、謝ることも勇気のいること、また、行きにくいところに行かねばならないことも勇気のいることだ。そこから親子の信頼関係は芽生えてくるんだ』と事ある度に言われてきました。子育てを終えた今、これ等の言葉は私にとって大変重みのある言葉で子育ての指針の言葉としてきました。

 

(ハ)誉める心理

母親Dのように、「これくらい出来て当たり前」と思うと、誉め言葉が出てこなくなることがあります。つまり「そんなことぐらいで『ごほうび』をやっても意味がない」と思えてしまいます。

このお母さんは、特別高い要求水準を持っているわけではないかもしれません。親たちの中には、もっと高い期待や要求水準を持ち、それが満たされないと、誉めたくないと思ってしまうことがあります。

「お母さんを喜ばすのが一番難しい」といった子どもがいます。母親の高い要求水準を満たそうともがいていたけれども母親はなかなか満足しなかったため、彼の心は常に自分への不安感と母親への罪責感で一杯になり、そのうち、母親の承認なしに行動をとることが出来なくなりました。こうなると、『誉める』ことも子どもの自由を奪い、子どもを支配することになりかねません。

 

母親Eは、『叱るより誉めて子どもを育てよう』という本に影響されて小さい頃から子どもを誉めて育ててきました。心のどこかに子どもに嫌われたくないという思いがあったのでしょう。叱らないといけない場面でも声が出ませんでした。代わりに、誉めたり、ご機嫌をとったりすることで子どもの行動を操作しようとしました。いつの頃からか、子どもは、そうした母親の態度に束縛を感じるようになりました。

 

父親Fは、まさに小さい頃そんな子どもであったらしいです。父親が言うには「体罰とは違いますが、自分にとって、親の愛情も人間性を否定し、自由を奪うという点では暴力的でした」

小さい頃の誉められることへの抵抗が、大人になってからの誉めることへの抵抗へとつながっていたのだと考えられます。

『誉める』ことが、相手の心の自由を奪い、主体的行動の選択を妨害するとすれば、父親Fのように動物の調教と同じようになるかもしれません。

しかし、『誉める』ことで、大人は自分たちの喜びや誇りを伝え、それによって、子どもを支配するのではなく、子どもの心に自信と責任感を育むことも出来るのです。そうした『誉める』は、特別にすばらしい行為に対してだけなされるものでなく、単にルール違反をしなかったときや、「できて当然」のことができた機会にも「よくやったね」「それでいいよ」といった励ましや受容の言葉、関心を表す眼差しや安心と信頼の表情を通してあげることが大切と思います。

子どもの存在を肯定し、人格を尊重していることを言葉や態度で表すことによって『誉める』方が子どもの心に届く育て方だと思うのです。       

 

D・叱り上手・誉め上手を超えて

子育ての過程は、親たちが自分自身とも向き合うことになる過程でもあります。

子どもを思い通りにしたい、そう出来ないと簡単に欲求不満に陥ってしまう。ゆっくりした変化を信頼できない。すぐに成果を出せないと無力感を味わってしまう。自分の中の弱さや駄目な部分をごまかしたくなる。子どもに嫌われないか心配になる。子どもを許したり、子どもに素直に謝ったりすることができない・・・・。

等々、子どもと関わる親たちを見つめ直してみると、便利な社会の中で、いつのまにか偽物の有能感や自信を抱えて、忍耐力や想像力を次第に失いながら生活している自分に気がつかされることがあります。

『叱る』も『誉める』も、人間関係の中で、子どもが自分で考えて行動を選択し、その行動に責任を持って生きていく力を育てるコミュニケーションと言えるでしょう。大人が、子どもを支配したり脅かしたりするために行なうのでも、大人の欲求を満足させるために行なうものではありません。自分の傷ついた感情を発散したり、自信のなさをごまかしたりするのに行なうものでもありません。目の前の子どもの主体性を奪い、別の人間や理想像に近づけるものでもありません。

どんなコミュニケーションでも、自分自身の心を無視してはならないように、親たちは自分の心にもっと耳を傾けていかねばならないと思います。

親たちは、子どもに対して「思い通りにできる」という錯覚から目覚めなければならないと思います。子育てをする親たちが完璧でないことをありのままに受け入れることにためらう必要はないと思います。そもそも、子どもは親の思い通りに行かないものなのです。子育ての過程は、忍耐力や想像力を子どもと共有しながら、子どもと共に親も成長する過程だと思うのです。親は子どもと関わる中で、自分に正直になり、自分の弱さをごまかさず、その上で自分が負える責任を実行に移していくことを学び続けるのです。

正しい叱り方や誉め方は教科書に書かれているのではありません。目の前の子ども一人ひとりの関係の中に、ヒントが隠されているのです。親たちは、叱り上手や誉め上手にならなくてもいいのかもしれません。それよりも、失敗を通して子どもに許される体験と子どもを許す体験を重ねていける人間であることが必要と言えるでしょう。そうした親の生き方が『叱る』や『誉める」を超えて、何を大切にして生きるかを子どもに伝えていくことができるに違いないと思います。                               

 

E・子どもの自律性を育てるしつけ

一般に、親は、子どもがまだ幼い時から、子どもの行動をコントロールしようと試みます。子どもの注意を特定のものに向けさせたり、してはいけないことをさせないようにしたり、逆に少々嫌がることでも、親が必要だと思うことを無理に子どもにさせようとします。それはしつけの一部を構成しているように見えます。

しつけの目標は、基本的には子どもに規範の内面化を起こすことだと考えられます。親は、子どもが自らの判断や行動基準で行動できるようになること、つまり自律を願って、子どもが逸脱した行動をとったり行き過ぎたりしたときに、コントロールするのです。

しかし、実際には、なかなか子どもの行動をうまくコントロールできなくて苛立ったり、悩んだりしている人が多いのです。

どうすれば、親は子どもの行動をうまくコントロールできるのでしょうか。そしてさらに、子どもを自律的にするために、親はどうすればよいのでしょうか。子どもの自律性を発達させるために、親はどんなことに気をつけなければならないかを発達心理学に基づいて述べることにします。      

 

(イ)温かさとコントロール

子どもに対する親の行動と子どもの自律性や社会的有能さの関係を考えるとき、発達心理学では、しばしば、子どもに対する親の行動を二つの次元で捉えられます。

一つはコントロールの強弱であり、もう一つは子どもに対する温かさや関与の強弱です。

親の子どもに対する温かさは、いろいろな形で示されます。乳児期には、それは子どもに対する親の感受性や反応性、受容性という形で示されます。 

母親は子どもの意図を汲み取り、それを尊重しながら、自分自身の行動を調整していきます。子どものことに関心を持ち、子どもとの関わりを心から楽しみます。子どもの行動を過度に刺激し、子どもの行動を妨害しません。親が子どもに対してこのような行動を示すとき、そのような親の行動は「温かい」とみなされるでしょう。

学童期や青年前期の親子関係を扱った研究では、この頃の温かさは、親が子どもに対して期待やポジティブな評価を表明すること、子どもの自律的判断や行動を促進しようとすること、子どもに対する関心や関与という形で捉えられることが多いのです。例えば、子どもが自分自身で何かを決定することを促すとか、情緒的支持を与えるといった親の行動が「温かい」とみなされるでしょう。

親が子どもの行動をコントロールする目標は、子どもを自立させることにあるのではないでしょうか。親が、子どもをコントロールするときに、必ずしも明確に表現していないとしても、子どもにさまざまなメッセージを伝えようとします。何が許されるのか、どこまで許されるのか、そして恐らく、なぜそうなのか、を子どもに伝えたり、考えさせようとしたりするのではないでしょうか。時には、何かをする前にちょっとだけ結末を考えたり、他の選択肢がないかを考えたりすることを期待する事もあるのではないでしょうか。

親のそのようなメッセージが子どもに届くためには、親の発するメッセージが子どもに理解されるものでなければなりません。もっとも、人間の子どもは、この上も悲しい断腸な出来事の連鎖からルールを抽出するすばらしい能力を持っています。

もし親の行動に一定のルールが存在していないとしたら、子どものすばらしいルールの抽出能力は、自立にとって望ましくないルールを子どもに認知させてしまうかもしれません。例えば、「父親が眉毛をぴくつかせたらヤバイ、その行動をやめろ」のようなルールは、子どもが父親の暴力から逃れるためには有効かもしれませんが、対人的な状況でどのように行動をとればよいかを何も指し示してはいません。

子どもに伝えるべきメッセージは、できるだけはっきりしたものであった方がいいのです。つまり、ルールは、はっきりと分かりやすい方法が子どもにとって受け入れやすいのです。                 

 

(ロ)効果的に子どもをコントロールする手段 

親は、子どもをコントロールするために、なだめたりすかしたり、大きな声を出したりやさしい声を出したり、あの手この手を使って子どもをコントロールしようとします。しかし、必ずしも意識出来るわけではありませんがコントロールの仕方によって子どもの行動が異なるように思います。

子どもの行動に対する批判や命令は、子どもに対するコントロール方としてそれほど有効ではありません。子どもは、親の批判や命令に対して抵抗することが多いからです。3〜4歳の幼児でも、子どもは、親が批判や命令をするときよりも、子どものすることを受容してくれる場合のほうが、親の言うことを素直に従う傾向があるのです。

母親が子どもに対して受容的に関わる環境にある子ども、つまり、母親が子どものすることを受け入れ、批判や命令を極力少なくして育てた場合、それらを受けた子どもと比較したときに、子どもの順応性は明らかに高いそうです。

怒りの表出や力の行使は、短期的には子どもをコントロールする効果を持つかもしれません。しかし、親の子どもに対する攻撃性の表出は、子どもに不安を与え、時には迎え打つような内的な問題を引き起こしかねません。子どもの攻撃性を高める結果にもなりかねません。子どもは、他者の行動の中に攻撃性を感じとりやすくなります。比較的簡単に他者に対して攻撃的行動をとってしまう可能性が高まるのです。

思春期になれば、親の子どもに対する批判や命令、怒りの表出や力の行使は、子どもと親との心理的距離を増大させるように働く可能性があります。そのような場合、子どもは、親が発するメッセージを拒否してしまうかもしれません。これは、子どもの自律性の発達にとって危険なことと言えるでしょう。

                                  

F・ 叱られ過ぎ・誉められ過ぎで育った子ども                

(イ)叱る・誉めるは程度の問題か? 

「どれぐらい叱ったらいいのかわからない」「誉め過ぎるといい気になるだけで逆効果になるのでは・・・」「これ以上叱ると、かえって反抗して言うことを聞かなくなるのでは・・・」 

「叱る・誉める」を程度の問題ととらえ、「叱る・誉める」の適量を知って問題を解決しよう考えた経験は多くの両親にあると思います。

しかし、「叱る・誉める」は程度の問題でしょうか。

どの家庭にも当てはまる程度を決めるのには無理があります。

ある家庭で効果的とされる叱る量・ほめる量が別の家庭にそっくりそのまま適用されるとは限りません。

料理の味付けと同じです。毎日の料理をあっさりと薄味にしている家庭もあれば、濃い目の味付けを好む家庭もあります。日々の家庭のスタンダードによって、子どもの味覚は決まってきます。どこまでが叱り過ぎでどこまでが誉め過ぎかは、その家庭の日頃の関わり方と子ども側の感じ方によって変わってくるのです。

      

(ロ)両親は子どもの反応を観察しましょう  

親子の関係は、あらゆる人間関係の中で最も感情的になりやすいものです。母親(父親)は、叱った(誉めた)後、子どもから思うような反応が得られないと、腹が立ったり焦ったりして、頭では無駄とわかっているのに同じことをくどくどと繰り返しやすいものです。感情的になってワンパターンから抜け出せないのが親子関係の特徴なのです。そこで客観的に観察している父親(母親)がカウンセラー的な役割りをする場合があるのです。

叱った結果、誉めた結果を具体的に尋ねるわけです。叱った(誉めた)結果、子どもがどのように反応したか、どうなったかに目を向ける質問を積み重ねると、母親(父親)は次第に自分の関わりを冷静な目で振り返るようになるのではないでしょうか。するとワンパターンの悪循環にはまっていたことに気づき、「いつもくどくど言ってしまって・・・それがよくないのでしょうねえ」「そういえば、短く、でもゆっくり話しかける方が子どもはよく聞いているようね」などと、親自身に自然と整理がついていくのです。子育てには父母の積極的な対話がここにあると思うのです。

効果の無い叱り方(誉め方)をいつまでも繰り返していては、お互いが疲れてしまいます。

親が子どもとのやりとりを冷静な目で観察できるようになれば、問題は解決したも同然と言えるでしょう。やがて我が子に合った関わりが自然と見いだされて、ワンパターンの叱り過ぎ、誉め過ぎはなくなっていくと思います。

 

(ハ)「親心」に隠されているものは?

親が子どもを叱ったり誉めたりする動機は何ですか?

親は皆、「子どものためを思って」叱ったり誉めたりしています。

「叱る・誉める」の動機が、子どもにとってよかれと思う親心にあることは言うまでもありません。しかし、この大前提の点検が大変重要になってくるのです。

「子どものためを思って叱っているのに、子どもは全然聞く耳を持っていない」とか、「子どもに自信をつけさせようと誉めているのにうまくいかない」とカウンセラー役の父親(母親)に語りかけるのはよくあることです。そこで親子の歯車がどんなふうに噛み合わないのか、話し合っていくと、やがて母親(父親)の方から「子どものためを思って」という大前提の背後にあるものが浮かび上がってきます。それは、

 

@自分の子どもなんだからこうあって欲しい。

Aわが子がそんなことをするはずがない。

B自分の子があんなことをするなんて許せない。

C他人に迷惑をかけないで欲しい。

といった子どもに対する親の理想や期待が大方だと思います。また、親にとっての欲や都合や世間体もあり、次のような事柄も浮かび上がってきます。

 

D親に恥ずかしい思いをさせないで欲しい。

Eせめて人並みに平均点ぐらいはとって親を安心させて欲しい。

Fきちんとしたしつけをしている家だとみられるように振舞って欲しい。

 

このように、「親のため」に叱ったり、誉めたりすることが動機となって子どもをしつけようとしても子どもの心には響くはずもありません。

子どもは、親が「なぜ叱るのか」「どうして誉めるのか」の出所を敏感に察知しているのです。このように考えて見ると、夫婦どちらかが常に子育てに冷静な目で、あるいは客観的に観察しなければなりません。勿論夫婦二人が常に冷静な目で子どもを観察するにこしたことはありません。子育てについて、お互いに多くの話し合いをすることが最も大切なことではないでしょうか。

 

(ニ)「行い」と「気持ち」を使い分けて叱る

親が子どもに「自分の子だからこうあって欲しい」「こんなことはして欲しくない」と理想や期待をしてしまうのはもっともな心情です。だからこそ、子どもに向けている理想や期待を日頃からよく自覚し、理想や期待に振り回されて感情的にならないことが大切だと思うのです。

その援助の一つとして、子どもを叱るときには、子どもの「行い」と「気持ち」を分けて考えてはどうでしょう。

例えば、幼稚園で子どもが友だちの上履きを隠したとします。すると「思いやりのある子に育って欲しい」と願っている親は、その願いの強さのあまりに「どうして相手の気持ちを考えることが出来ないの!お友だちの上履きを隠すなんていけないことだとわかっているでしょ!」と感情的に怒ってしまうかもしれません。子どもに対する期待が大きければ、その分、裏切られた(と感じた)ときの怒りが大きくなるのは当然のことです。しかし、ここで怒りに駆られて叱り飛ばしても、子どもの心に響かないばかりでなく、固く閉じこもってしまうことは、たいていの親が経験していることと思います。このような時は、「親の期待に添わなかったのは子どもの『行い』であり、『行い』の背後にある子どもの『気持ち』とは別問題である」と意識的に考え、子どもに対する理想や期待をひとまず棚上にし、子どもの『気持ち』に焦点を当てるべきではないでしょうか。

 

例えば次のような具合です。

「お友だちの上履きを隠したことはよくないこと、間違ったことよ。でも、間違った行動をしてしまったのには何かそれなりの理由(わけ)があったのかしら?やったことは悪いけど、そうした気持ちを話してくれる?あなたの行動はいけないけど、気持ちを理解してあげたいから・・・」。そうすれば子どもは、すぐではないにしても、いたずらの背景にあった「気持ち」を話してくれるでしょう。

例えば、「(ほか)の友だちに『いたずらしよう』と誘われて断れなかった。一緒にしないと仲間はずれにされると思って怖かった」「A君の上履きを隠したのは、前にA君が同じことをして、仕返しをしてやろうと思っていたから」などと子どもの気持ちがある程度理解できる場合が多いものです。

「行い」は許せなくても、よくよく子どもの「気持ちを」を聴いていくうちに、「なるほど、そうだったのか」とうなずけるもっともな『気持ち』が語られるものなのです。

親の理想や期待をひとまず棚上げにし、『行い』はいさめ、『気持ち』は受け止めていくと子どもは、「お父さん(お母さん)は自分を可愛がっているから叱るんだ」と感じるようになるでしょう。

(ホ)誉める根拠を明確に

さて次は、誉める時に注意したいことがあります。それは、子どもを誉める時、叱るときと同様に、誉める根拠がハッキリしていることです。

例えば、「お母さん、この問題ができたのはクラスで二人だけだったんだよ」「すごいわね!二人だけだったの!えらいわねえ」

この親子の会話の中の母親の誉め言葉はどうでしょう。他の子どもとの比較を根拠にして誉めるのは感心しません。このような誉め言葉は、暗に「次の機会に他の子より劣っていたら誉めてやらないよ」と言っているようなものなのです。兄弟、姉妹との比較も望ましいとはいえません。

親が比較を根拠に誉めると、子どもは優劣に敏感になり、「次もよい結果(順位)をとらなければ・・・」とプレッシャーを感じるようになり、結果のよいものしか親に言わなくなったり、結果のよいテストのプリント答案しか見せなくなったりすることさえあるのです。

 同じように、「お父さん(お母さん)に似て○○がよくできるね」といった誉め方も芳しくありません。これは、「あなたができたことは親の血筋によるもの」というメッセージを送っているようなものなのです。つまり、子どもが達成したことを親の手柄にしているわけです。これは子どもを縛る誉め方で暗に「お父さん(お母さん)と違っていたら誉めないよ」と言っていることになるのです。これが度重なると子どもにとって徐々に重荷になっていきます。

親との結びつきを根拠にした誉め言葉ばかりを浴びた子どもは、将来、親から離れて、自分独自の世界を作ることに不安を感じるでしょう。

誉め言葉の使い方次第で、子どもの自立の足枷になることもあります。

 誉め言葉は、ほかでもないその子自身が成し遂げたことを共に喜ぶことから生まれるものです。本当の意味で子どもを誉めるには、自分にはない資質やセンスを子どものなかに発見する開かれた態度が親に求められるのです。

 

(ヘ)子どもを1個の人格として尊重しましょう

子どもを叱ったり誉めたりするのもその子の成長に必要なことを与えるためであり、親の理想や期待を実現するためではありません。とはいっても、「言うは易し、行なうは難し」であります。単調な毎日を過ごすうち、親子の距離が縮まり、叱ったり誉めたりする関わりが、はたして子どものためか親のためかが区別がつかなくなることもしばしばです。だからこそ、子どもを自分とは別個の人間として、人格として、尊重する意識の努力が親には必要になってきます。子どもは自分とは違う人生を歩む可能性を秘めた存在であり、人事の及ばない不思議な縁によってたまたま親子として結ばれたに過ぎないと、いつも心の中で思い返したいものです。それさえ忘れなければ、親の理想や期待に基づいた、叱りすぎ・誉め過ぎはなくなると思うのです 

 

G・ゆとりあるしつけのできる親とは・・・  

(イ)「しつけ」とは

「自分にとっても他人(ひと)にとっても大変好ましい生活習慣がしっかり身についた子どもに育て上げることができる」ということが「ゆとりあるしつけができる」ということになるでしょう。

「しつけが大事」とよく言われます。「しつけ」とは何かというと、「よい生活習慣のこと」ではありません(・・・・・)

 「しつけ」とは現在完了形のプラスイメージで「よい生活習慣がしっかり身についてしまって(・・・・・・)いること」になるのです。

 「しつけをしなければならない」と言われて「くどくどとうっとうしく声をかけて、子どもを嫌がらせてしまう」という現在完了形のマイナスイメージを与えた末に、「しつけをしようと力んだら、かえってよくない子ができるから、しつけに頑張る必要はない」などと考えるのは噴飯ものだということになります。

「しつけ」を語源的に述べると、「しつづける」ことが次第に慣れっこになって「し−つける」になり「しつけ」になったといわれています。

「しつけ」である以上、いいことも悪いことも、し続けてしっかり習慣になり身についてしまったことは、語義上みんな「しつけ」と考えられるのです。

マイナスのしつけのしっかり身についてしまった大人たちが、世の中には五万といます。子どもは大人の姿を見て身につけていきます。それが子どもを戸惑わせ、混乱させ、嫌な気持ちにさせる元凶となっていると思うのです。

いまどきの子どもはしつけが出来ていない、と嘆く前に悪いしつけができすぎていて困ったものという方が正しいかもしれません。

みだしなみの悪さが気にならない、だらしがない、するべきことがちゃんとできない、他人の迷惑が気にならない、などと言うのは、すべて「しつけができていない」のではなく、「悪いしつけができてしまって(・・・・)いる(・・)」と捉えるべきと思うのです。

「悪いしつけ」のことを世間では「しつけ」とは言わず、「悪い癖」とか、「駄目な習慣」とか、生まれつきどうしようもない習性のように言ってしまいがちです。

私自身も、いい年(67歳)になりながら、生まれつきの習性のように、他人に迷惑のかかる悪癖を、つまり「マイナスのしつけ」をまだ身につけているように感じています。

この歳でも、もし新たに今頃やっと気がつくような「マイナスのしつけ」に自分で気付けば、それを直し続けよう、という意気込みだけは持っているつもりです。そしてこの意気込みが心の老化を防ぐのだと信じています。

今日まで続いてきた習性のものを、根本から改めるのは至難のことであるには間違いありませんが意識して心がけ、日々の生活を送れば苦にならないと思っています。

整理整頓が悪いとか、人様の言動につい無礼不躾が出るとか、「あっ、またやってしまった」とかの悪いしつけが所々にあるのが小生の実際で、悪癖、悪習をすべてなくすなど「無くて七癖」の言葉通り無理なことと思いつつ大目に見てもらっていることは間違いありません。

目にあまる、と言わざるを得ない悪癖、悪習は、いつの歳になってからでも「気がついた時から改めよう」と心がけるべきだと思い、気をつけています。 心掛ければ、心掛けるだけのことはあるようです。「心掛ける習慣」が「しつけ」になっていることが大事だとつくづく思っています。

 

(ロ)「見守り方」のコツ

 よい習慣が知らず知らずのうちにすっかり身についていく様子や、親の気持ちに反して注意忠告が逆に作用していく様子などは、しっかり見守っていなければ、どこでどのように親が関わってやるべきかのタイミングや関わり方の方法がついおろそかになってしまいます。

子どもを見守る「見守り方」や、必要な時に必要なだけ関わる「関わり方」について、きっかけのある度に、こうかああかと思いをめぐらせておくべきでしょう。そのヒントとして述べておきます。

 

まず「見守り方」について述べますと、

見守ると言うことは、余計な口出しをしないことです。見守っているつもりでも、ついつい余分に干渉しまいがちです。日頃干渉されがちな子どもは、口出しされることが習慣になっていて、何でも親に決めさせて、それが的を射ない結果を招くと親の責任にしてしまいます。自分が自分の言動に責任を持たない(持てない)悪習を身につけてしまいがちなのです。つまり責任転嫁の方向へ次第に傾斜していくでしょう。

「今日は幼児教室(塾)へ行かないよ。ね、いいでしょ」と自分で決めねばならない時にも、決まって親の同意を求めがちになり、親はなんとか行かせたいと思う以上、この期待(むしろ強請している)に同意し難くて言い渋っているのを、無理にも自分の都合のよい返事を催促して、「ね、いいでしょ。聞いているんだから返事をしてよ。ね、いいでしょ。」と、

もし、ここで「いけないわ。行きましょう。」と反対すれば子どもはすねて、そこからうっとうしい言葉のやり取りが始まると思います。それがいやなので、しぶしぶ許す気持ちが働いて、でも文句だけは言っておきたくて、「どうしてこのごろ、幼児教室(塾)へ行きたがらないの?聞いても何にも言いたがらないし・・・。お母さん、もうあんたのことわからなくなってきたわ。行けたら行った方がいいよ。どうしてそんなに休みたいの。仕方のない子ね。」

「だから、休むよ」

「お母さんはあんたに負けたわ。それじゃ、休みなさい。そんなに休みたいのなら」

「やったぁ!」と、こういう展開に陥りがちです。

子どもの心の対決を見守ってやるのではなくて、親と子の中途半端な対決に親が敗れたのです。これでは見守っていることにはなりません。

子どもを見守る時、一番大切なポイントは、子どもの心の中の、二つの心の対決の葛藤を見守ることなのです。

 

(ハ)自我を育てる

心の中の二つの心の葛藤対決とは何でしょう。              

つまり、前述の例で言うならば、「幼児教室(塾)へ行くべきである」と「行きたくない」の二つの心がしっかり向かい合う葛藤対決のことです。

単純化して言えば、「行くべきである」と思うのは、世間と自分の関わり合いからのことを案ずる()超自我」の心であり、「行きたくない」と思うのは、当面のわずらわしいことや不本意なことから逃げたい「我」の心です。

人は皆、「超自我」と「我」の葛藤を超克していきます。「自我」の鍛錬によって社会的存在になっていきます。つまりよりよい大人になる過程を見守るということは、「超自我」と「我」の葛藤をどうにかとりなしていく子どもの「自我」の成長振りを、よく評価してやるということになるのです。ですから、見守るということは、良い評価をしてやるべき点を、見落とさず、しっかりと評価してやるということになるのです。

「自我」の成長を見守ることが「見守る」ことの本義です。

自分自身を見据え、まわりと自分の関係をも同時にしっかりと見渡し、今自分がどう行動すべきかを判断し、行動する。それが「自我」の役割です。「自我」の成長ぶりにプラス評価を与えることが、「見守る」という大事な(かなめ)と思います。

 

(ニ)必要なときの「関わり方」

し慣れて、し続けることが、独特のパターンを形作ります。それが「しつけ」の実態といえましょう。親と子の「関わり方」についても、共に暮らしている中で知らず知らずのうちに、親が子の「自我」の成長に気持ちよいプラスのかかわり方をし続けて慣れているか、逆にマイナスの関わり方を親が試みてその都度、子どもに拒否や逃避をされ続けているか、それも、長年の間にパターン化されてしまうのです。

例えば、同じ我が子であっても、兄にはうまくはまったやり方が、弟にはどうにも適さないというような事態が、世間にはよくありがちなことなのです。

上の子は、文字というものに早くから興味、関心を持って喜んで覚えたがるので、教えてやるといつの間にか、就学前には絵本が読めるになっていたのは勿論のこと、自分の名前、家族の名前、友達の名前まで書けるようになっていた。

ところが、文字には一切興味を示さず、教えようとすると、嫌がるので親は子どもの聞こえるところで「同じ兄弟なのに、弟は駄目だ。どうしてこんなに違うのだろう」と、弟への失望を不用意にあらわにしました。

仔細にその違いの出所をたどってみると、最初の最初に親が子どもに示した不用意なイメージの与え方が決定的だったように思います。

このようなケースは、極めてよくみられることです。

 

兄のほうが随分幼いころ、まだ文字など読めるはずもない頃、電車の中から窓の外を見ていて、たまたま「くすり。おくすり屋さんだよね」と親にささやきました。見ると確かに大きな看板に「くすり」の三文字が浮かび上がって見えます。本当のところ、その薬局には再三薬を買いに行ったことがあって、馴染みの風景を車上から眺めて喜んで反射的にそんな一言が出たに過ぎなかったのに、「まあ、耕一、文字が読めるの!すごいわね!」と母親が一大評価をくだしました。帰ってから、その子は、早速折り込み広告の裏の白紙に「くすり」と書いて「こう書いてたよね。これ、なんて読むの」と期待に目を輝かせて顔を見守ってくれたので、「くすりやさん」と大声を出したのでした。母親は喜んでしまい、「くさの(草野)こういち(耕一)、の『く』がくすりの『く』なんだよ」と説明するといつの間にか読んだり、書いたりするようになりました。この偶然のきっかけが文字というものへの早くからの関心を呼び起こした動機となったのです。

それに反して、弟は、親の期待が先行して「この文字がくさのこうじの『く』よ」と教えてもまったく関心を示さず、「お兄ちゃんは、あんたの頃には、ひらがな全部が読めたのに」と失望をして愚痴を言ったそうです。その後、文字というものにマイナスイメージを持つようになって、いつしか、エスカレートして、「どうも耕次は耕一と違って、勉強は苦手みたい」なんて思ってしまいました。

 

ちょっとしたとっかかりの関わり方の無造作な違いから出発した、大人の思い込みが、子どもの成長の色違いをいよいよ色濃い違いへと方向付けてしまうことがありがちなのです。

不用意なマイナスイメージになる関わり方を、つい重ねてやり続けていないかを、子どもの成長を見守る大人は、いつも自己点検しなければならないでしょう。

意外と、一生懸命によかれと思って努めたことが、子どもの自尊心を徹底的に傷つけるマイナスイメージそのものになっていることが多々あります。親として気をつけなければならないことと思います。

 

H・やる気を出させる叱り方、ほめ方

(イ)誉め言葉、叱り言葉をうける心理

夫婦の会話の中で「この料理おいしいね。どうやってつくったの?」と言われれば嬉しいものです、次に作る料理も「気合を入れて作ってみよう」と言う気持ちになるのではないでしょうか。そのために、料理の本を取り出してより手の込んだ料理に挑戦して作ろうと、満々のやる気が出てくると思います。

いくつになっても誉められて嫌な気はしないものです。

「先生!今日のネクタイ、かっこいいね、イケテルネ!」と幼稚園の子どもに言われるものなら67歳の私でさえ、もう舞い上がってしまい、家にあるネクタイを明日から次々と取り替えてみたくなるものです。事実そんなことがありました。

幼稚園の女の子どもが覚えたての歌を歌っていたので「いい声だね。いい歌だね。」と何気なく誉めると、効果は覿面(てきめん)、耳にタコができるくらい幾度も美声(?)を聞かせてくれたこともありました。

誉められると、快感情(うれしい気持ち)が湧いてきて、行動が促進されることは、心理学の理論を持ち出すまでもなく誰もが経験していることだと思います。それはつまり、賞の効果であり、「やる気を出させる誉め方」は確かに存在しているようです。

では、「やる気を出させる叱り方」はどうでしょう。

大人も幼児も叱られて嬉しくなる人は、恐らく誰もいないと思います。おけいこ中の私語を叱ったときのあの嫌な雰囲気。私語はなくなり

ますが、一時的な場合が多く、元の雰囲気を取り戻すには大変な時もあります。

そもそも叱ることは、罰の一種であり、その行動を抑制することを主な目的としています。多くの場合、叱られると、嫌な気持ちになり、もうやりたくないと思うものです。しかし子どもの間違った行動や危険な行為は、叱って止めさせるべきことであり、それは大切な教育(しつけ)です。その同じ叱ることが、やる気を引き出させることがあるでしょうか。

 

(ロ)やる気が出た子どもの「ほめられ体験」

・描いた絵をみんなの前でよい評価をしてくれた。

・運動会の練習のとき、「転んでもあきらめずに最後まで走ったね、よく頑張ったね」

・テストの結果を見ている父は、どんな点をとっても「頑張って答えている問題もあるじゃないか。お父さんだったら間違うかもしれないね」

このように子どものやる気を引き出させる些細な言葉がけが子どもにとって大きな励みになます。

よい結果を出すことは、親子にとってうれしいものです。それがたとえ僅かな伸びであっても、その成長過程も含めて喜び合える親子でありたいものです。

次のことを十分に配慮した誉め言葉が大切だと思います。

・結果より、これまでの努力を誉めてくれたときの方がやる気が出ます。

 (親は結果しか見てくれない場合が多い。)

・伸びる可能性や評価をしてあげた方が見守り、期待されている喜びをかみしめ、学ぶ楽しさを感じるので将来につながる誉め言葉となります。

 

(ハ)親は、いろいろと悪い癖を気にせずにいられない

〔事例その1・食事〕

子どもが食事をしている時、親は、いろいろと小言を言いたくなることがあります。ふと見ると、

 

・肘をついてご飯を食べている。

・口をあけてクチャクチャと音をさせて食べている。

・足を組んで食べている。

胡坐(あぐら)をかいて食べている。

・食事中に席をよく離れる。

・お箸の持ち方が気になる。

お茶碗をガチャガチャと音をたてる。

 

「どうしてそんな格好をして食べるの」、「どうしてそんな食べ方をするの、食べ方が汚いじゃないの」、「足を組んで食べるのは、お行儀が悪いわよ」「胡坐をかかないで!」等々数え上げるときりがないほどです。

今度こそは、小言を言うまいと思っても期待に反して前記に挙げた一つや二つの小言が出るのではないでしょうか。そのためにせっかくの楽しい食事時間はなんとも雰囲気が悪くなってしまいがちです。

一度ついてしまった癖は、本当に直りにくいものです。さらにお箸の持ち方となるとただ叱るだけではすまないと思います。時間をかけて、気長に悪い習慣はよい習慣に改めさせていく努力が親に求められるでしょう。

 

〔事例その2・整頓〕

ソファーにクッション以外のものが置いてあると、どうも雑然として気分が悪いものです。

部屋に洗濯物がぶら下がっているのはモヤモヤとして気分の晴れないものです。

元気のないとき、考え事をしているとき、また逆に健康で何かしてみたいときなどは、その意欲すらなくしてしまいがちです。

チラッと子ども部屋をのぞいて見ると、本来、本箱には本が整理整頓してあるものが本は足の踏み場もないほどに取り出されている。積み木もばらまいたように取り出している。

「ちゃんと片付けたら?」というと「後でまとめて片付けるから」〔もしかして母親(父親)の口癖をまねているかも〕という返事、数日を待って再び様子を見に行くと何等変わっていない。

口やかましく言う気力もなく、母親が後片付けをするのは好ましいことと言えるでしょうか。(これは、はなはだ極端な例かもしれません)

 

(ニ)子は親の鏡

〔事例その1・作法〕

疲れて帰ってくるとついソファーに座って、目の前にあるほどよい高さのテーブルの上に足をチョッとだけ乗っけて「ああああ、疲れた」と一言

しかし、このうかつな(?)行動は子どもにはめざとく見つかり、記憶のなかにしまわれてしまいます。そのときには、別に知らぬふりをしていても、ある日、ある時、子どもは親と同じような事をするものです。

外出から「ただいま!」と言って帰って来ると「お帰り」と言いながらテーブルに足を乗せてテレビを見ていることもあり得るかもしれません。

「お行儀が悪いわよ」と言おうものなら「だって、お母さんだってやっていたじゃないの」と勝ち誇ったような言葉が返って来るでしょう。

そんな時、どうしたらよいでしょう。「しまった!」と心の中で思いつつも親であっても自分の非を素直に認め、「ごめん、ごめん、そうだったわね」と謝りましょう。謝ることは、勇気のいることですがこれもまた子どもの教育になっているのです。

 

〔事例その2・お手伝い〕

日曜大工のお父さんのお手伝い、お母さんのお料理作りのお手伝い、家庭の諸々のお手伝いはどこの家庭にもよくあることです。

外出先から帰ってきて、料理を作るだけで精一杯、どうしても食べた食器は、食卓から流し台に持って行っても、すぐに洗わないで、水につけておき、ついついそのままにしまう時がよくあります。次に料理を作るまでは洗うことなく水につけたままにしてしまいがちです。

そういう生活が常習化すると、何気なく見ている子どもは、絶対に食べ終わった食器をすぐには洗わなくなってしまうでしょう。親がそうであれば親の都合で、子どもに厳しく教育は出来ないでしょう。

少しは手伝って欲しいと思っていても、このことにまったく “我関せず”の状態で情けなくなる時があると思います。日頃の手伝う習慣は母親が病気になっとき、緊急の要件で家を留守にするときに本領を発揮すると思います。

何よりも、お手伝いをすることによって、“家族の一員”としての自覚を持ち、“しなければならない”という責任感を持つようになるのは疑いのないところでしょう。責任感を身につけさせようとするためには「家庭のお手伝い」から始まると言っても過言ではありません。責任感が身についている子どもは率先して家庭のあるいは社会のお手伝いをすることになるでしょう。つまり、お手伝いは奉仕(ボランティア)の始まりといえるのです。

 

〔事例その3・時間の約束〕

大人になっても、子どもの頃の影響に大きく左右されるのが時間の概念ではないかと思います。

子どもが遊びに出かける時は「できるだけ○○時までにかえってくるのよ」と約束を求める親は少なくないと思います。子どもは、多少の誤差の範囲はあっても律儀に親との約束の時間は守ってくれるでしょう。一方、親(母親)の場合は、「○○時に帰るよ」と言ってもプラスマイナス二時間程度の誤差は親の環境、状況から、子ども心でそれなりに理解して受け止めてくれます。

 ところが夕方になって、急な仕事が入ったり、ノッピキならぬ知人に出合ったりして予定が大幅に狂ってしまう時があります。そんな時、子どもは情けなく思い、半ば諦めてしまいます。

それでも、今のところ、子どもは律儀に親に言われた時間を守ってくれるでしょうが今後は、どのように展開していくでしょうか。考えると恐ろしくなります。今は、「生活のためだから、仕方のないことだから」と善意に思ってくれればよいのですが、いつか自分の都合に合わせた言い訳をするような大人になるような気がしてなりません。

信用と信頼は、「時間の約束は守る」ことから始まる現代人のマナーだと思うと同時に社会生活を営む上での基本だと思います。

 

〔事例その4・親切〕

お友だちのごたごたは幼稚園や学校に行けば必ず出てくるものです。

また、親同士のごたごたも出てくるときもままあります。

特に女性の場合には、言葉が勝敗を分けるときがよくあります。その時に、家で親が、子どもに対して、あるいは夫婦で、「まったくのろまなんだから!」「ばかだね!」などとぐうの音も出ない言葉で責めていると、子どもたち同士の喧嘩にもそれが出てくるのは当然と言えるでしょう。調子に乗って的確に相手の落ち度を徹底的に責めるかもしれません。

子どもの中には、言い方が大変きつく、周りの友だちがグサッときて、傷ついてしまう一言を平気で必ず言う子がいます。会話だけに留まらず、粗暴な行動に発展することさえあるのです。

相手の気持ちを全く察せずに無神経に大変きつい言葉(粗野・暴言)で言う大人もいます。

「人には親切にするのよ」と時々言っても、本人にとっては現実味のない奇麗事(・・・・・)として受け止めてはくれません。「子は親の鏡」「子どもを見れば親がわかる」が如実に現れるのが日頃何気なく使っている「言葉」と思っています。

親が子に対して、あるいは夫婦間で普段から子どもにも周りの人にも“親切な言葉かけ”を見せていないととんでもないことになると思うのです。

子どもは親を鏡としていろいろな言動を伴うものです。普段、何気なく親がやっている言動が子どもに伝わってしまうものです。それが意外な場面で出てしまうものなのです。

「あの家庭のしつけ、どうなっているの?」と言われてしまいます。言われるならまだいいにしても、こういう言動は子どもの対人関係や人生に少なからず影響されると思うのです。

子どもがなんと言っても譲れないことは譲れない。そうやって教えていかなければならないこともあります。

親であっても完璧ではありません。ここで大切なことは、子どもに間違ったことを言った時、やった時は、親であっても素直に認め、子どもに「ごめんね」と謝れる親であって欲しいと思うのです。このことは、子どもが他人と気持ちのよい対人関係を結ぶときの基本になるからです。

もう一つ付け加えると、「この子は、お前が教育もしつけもみんなやれ!」なんて言って、母親が子どものことで悩んでいる時、知らん振りをしたりしている父親がもしもいるとすれば大変な誤りです。

お父さんの手短で、重みのある言葉がけの必要がある時があります。

男の子、女の子を問わず、父親が向き合って、それこそ対決しないといけないときも出てきます。そういう時は、逃げてはいけません。父親としての家庭の役割、存在感を意識させる機会も大切です。

結論としては、これまで挙げた事例をみると、家庭のルールは早めに子どもとの間に取り決め、親が模範になるようにという教科書的なことに落ち着くようです。

そして、「なるべく感情的にならないようにしましょう。そして、子どもの将来のために、頑張ろう。しつけは続けることに意味があり、意義があるのです」

子育ては、夫婦の共同作業といえるのです。

 

H・親の思うようにならない子育て

何度叱っても手伝ってくれない。叱れば叱るほど屁理屈をこねる。こちらが叱らなければおけいこをしない。と嘆く親の必死の「しつけ」は効果的に子どもの心に届いていない。心のご馳走「よろこび」を与えない限り効果はありません。次に、

「伸びる子に共通しているものは・・・」について述べてみますと、次のようなことがあげられます。

 

(イ)いい人に出会う喜び

いい人とは自分のわかってもらいたいことを充分わかってくれる人。わかりたいこと、知りたいことを、自分にわからせてくれる人であると思います。すぐ怒鳴ったり、突き放したりせず、とことん付き合ってくれる人であると思います。そういう人は、忍耐強く、精神的に強い人、何よりも思いやり深く暖かで優しい人といえるでしょう。自分は好かれている、大事にされている、いつも味方をしてくれている。と子どもが大人の言葉や、しぐさから、感じ取ったとき、子どもの心は安心し、自分に誇りを持つようになるでしょう。

幼い子どもであろうと、自分自身が一番大切なはずです。幸せになりたいと願い続けているはずです。淋しさや罪悪感・不安感は自己否定の種となります。自分の気持ちがわかってもらえた、認めてもらえた喜びは、自分に安心し自信となり、勇気を持ち始めます。わからないことがハッキリすれば、不安や恐れは消え、安心して本来の自分を取り戻し、明るく積極的な行動をとり始めます。そして意欲的になるのです。

お手伝いにしろ、おけいこ(勉強)にしろ、やり方や、やれないことを教え、できたことを、一緒に喜んであげる気持ちこそ、その子が自分の人生に納得し、生きる喜びと力を取りもどすに違いありません。

 

(ロ)役に立てた喜び

大人たちは、子どもに手伝いを任せながらも余計に時間がかかる、めんどうだ、とつい自分でしてしまい、あげくに叱りつけて、せっかくの喜びの体験を奪いがちです。

「君はおけいこ(勉強)さえしていればよい」と幼児教室(塾)と家を往復させるだけであれば、自分の体を通して、自分の可能性を体験することも、人に喜ばれる存在も、働くことの楽しさも体得できるはずはありません。自分はかけがえのない自分であることを、丁寧に感じさせてあげることが大切だと思います。

 

(ハ)達成感の喜び

「できた」という達成感は、さらに大きな難関へ挑戦する勇気と創造力を養う力となるでしょう。

子どもが父の日に似顔絵を描いてプレゼントしたとき、どのように答えますか?

「何だ、これがお父さんの顔か?似てないなぁ、上手とは言えないなぁ」と応えますか?それとも「ここのところが少し似ているね、上手になったね、上手になっているよ」と応えますか?

前者の子どもは、その後、描画に意欲的に、積極的になるでしょうか。

完全さだけを求め、許しや認める気持ちが欠けると子どもの意欲や積極性の芽を摘み取ってしまうことになりかねません。

後者の場合、たとえ、全体が似ていなくても、一部分をとらえて誉めてあげる。そして「絵が上手になった(・・・)よ、上手になった(・・・)よ」と過去形で誉めてあげることは、今自分は下手でなくなった。と暗示がかかり否定的な自分を肯定的な自分へと転化させる力となるのです。子どもに対して「寛容な精神で接する」が私の持論です。

 

(ニ)好奇心を高めてくれる喜び

好奇心は意欲と向上心の源です。大人は子どもの夢や思いを自分の好みで切り捨てやすいものです。

「将来(大きくなったら)何になりたいの?どんなことをしてみたいの?」と入試面接練習などで尋ねてみると、「別に何にもない」と応える子どもをよく見かけます。

親子で夢を語り合うことが少ないのか、あるいは無いのかと思う時があります。

幼児期のやる気や意欲は、身近で、実現可能な目標や目的から湧いてきます。

例えば、ピアノがもっと上手になりたい。サッカーチームのレギュラーメンバーに入りたい。スイミングがもっと上手に泳げるようになりたい。そのために子どもたちは練習をします。

より深い知識は、「知りたい」という感情なしでは育ちません。親や大人は、子どものこのような思いに対して、否定を一切やめ夢や好奇心を一緒に喜び合い、認め、応援することが大事だと思っています。

やがて、子どもが成長する過程で遠大な夢や目標、目的を持ち、それに向かって努力する力を自ら育むようになるはずです。

これからは、個人の活力が求められる時代であり、個性が求められる時代です。他人にない自分独自の感性こそが宝となるに違いありません。

 

(ホ)目標、目的、夢が持てる喜び

人生にはさまざまな目的があり、目標があり、夢があります。

人が幸せに生きるには、自分がどんな人間になりたいのか、といった信念、信条を目標、目的として持った時、安心感と誇りで自己実現を志していきます。

価値観にもっとも影響を与えるのは両親であり、祖父母であり、ひいては幼稚園の先生(教師)、友人です。

「好きな人のようになりたい」という願いに励むものです。周囲の大人(特に両親、祖父母、家族、先生、友人)が常に否定的に、悲観的に、悪意で接して応える(マイナスの志向)か、子どもにプラスの影響を与えるよう努力して接しているかで大きく人生が分けられると言っても過言ではないと思います。

常によき面、できること、あることに有り難く、味を添えて導く姿は、子どもの細胞にまでしみ込み、前向きに伸びていけるエネルギー、命の力となることは疑う余地はないでしょう。

身体の栄養は、水や空気と五大栄養素であり、誰が食べさせても体内時計が五歳になれば五歳の成長を、六歳になれば六歳の成長をさせてくれます。ところが、内面の意志力や思考力、判断力といった精神力の成長を育てるには何が栄養素といえるでしょうか。

伸びるこの子の共通点にも通じるように、それは、“よろこび”に優るものはありません。

子どもに手伝う心、おけいこ(勉強)したくなる思いを高めるには、喜びを感じさせることに尽きます。

多くの親に思いは充分にあるにせよ、子どもたちを、逆につらく、悲しく、淋しい思いをさせてはいないでしょうか。ガミガミ罵声では育ちません。私たちは、今こそ、言葉の一語一語の影響を考え、「人は相手からの言葉で自分をつくっていく」ということを意識し、対話の重要性を考える必要があると思います。

 

(ヘ)子どもを伸ばす効果的聴き方・語り方

「平均点以下の点しか取れないでお母さんが恥ずかしいわ」「みんなの前で注意されるのはお母さんは恥ずかしいわ」と言われて、「じゃこれからもっとおけいこ(勉強)をしよう」という気持ちになれるでしょうか。すっかりやる気をなくすか、反抗するだけだと思います。

「頑張っておけいこしたのに残念だったね」こんなふうに自分の気持ちがわかってもらえれば共感してくれる親への安心感、信頼感を土台に、次に何をすべきか、子どもは自分で判断することができるでしょう。

頭が悪いと叱られ続けている子がある日突然自分は頭のいい子だと思えるでしょうか。敗北感か、勝利感かは親の言葉一つで一転します。自分の気持ちが認められ、味方にされていると感じた時、人はゆとりから健全な思考へと導かれます。「お手伝いするのはつまらない。疲れるからいや。遊ぶ時間がなくなるからしたくない。せっかくしてもお母さんは喜んでくれない。ケチばかりつけるからしたくない。妹や弟には遊ばして僕にばかり頼むのでいや」等々。子どもは、今、どんな思いでいるのか、叱ったり、命令したりする前に、まずは子どもの気持ちを代弁してあげることです。

子どもが反応してくれたらしめたものです。

 

(ト)叱り方のいろいろ

幼少の頃で、成長して大人になってからも強烈に記憶に残っていることはいくつかあるものです。

私にも思い起こすまでもなく、幼い頃に叱られた(怒られた)記憶はいくつもあり、今でも夢に見ることさえあります。

叱られ方(怒られ方)によっては、自らの反省として残ることができるものもあれば、恨みや憎しみを伴った傷つきとして残るものもあるのです。

頭ごなしに叱ることは子どもの中に成長していく過程でひっかかりを生むことが多いのです。なぜ叱られているのかわからず、理由もなく頭ごなしにただ自分よりも力の強い大人から威圧されたという体験としていつまでも残ることになるでしょう。このような体験が繰り返えされたり、あまりにも強烈なものであったりする場合は人への怖れや不信感が強くなったり、自らを守るために周囲の人に対して攻撃的になったりするなど後々の対人関係で苦しむことがあるのです。そして自分に対しても自分を認められず肯定的な見方ができなくなってしまうという苦しさも抱えることになります。子どもも叱られる理由を知りたいと望んでいるのです。

まして、ただ一方的な暴力、暴言を与えることで悪いことをしたことに対する子どもへの関わりだけで済ませてしまうやり方は、暴力、暴言で片付けるということを学習させているようなものなのです。また、自分(親)中心の考え方が、判断が子どもにとって常に正しいとは限りません。子どもは、なぜそんなに激高するのか、なぜ叱られているのかわけのわからないままに終わります。

子どもを見ると、どんな叱られ方、怒られ方を親がしているのかがある程度わかります。

威圧的なかかわりや暴力、暴言を受けて育った子どもは、大人がそばに近づくと異常に緊張したり、とっさに手を上げて何かを防ごうとするしぐさをしたりすることがあります。逆に、叱られまいと異常なまでに全てに主体性が持てなくなることもあるのです。

またこれらの場合とは一見正反対な、必要なことも叱ることや注意することができず、安易に「お母さんが悪かった」と謝ってしまう親もいます。

親子の間では問題にしないことで済んでしまっても、そんな親子関係から一歩外に出た社会や集団といった場では、奔放でいろいろな境目の育っていないわがままで困った子として不適応を起こす場合があります。逆に、自分が何かしてしまうと母親が苦しむというパターンができてしまい、屈折した罪悪感を抱いてしまったり、自主性や積極性を損ない萎縮した子どもの部分が大きくなったりすることも大いにあるのです。

大切なことは、子どもの悪いことを叱るときに関わる親や大人の中に冷静な部分を残しておくことです。つまり、叱っている自分を見る自分がいるということです。そうすると自分が何をしているのか、「今どのぐらいまで叱ることが必要か」を考えることができるでしょう。叱る大人にも感情があります。ただ、感情をぶちまけるのではなく、子どもに何を伝えたいか、今、目の前で叱られている子どもをよく見ながら考えるスペースを残すということです。そして、後で自分の言動を省みて、叱り方がまずかった、間違っていたということであれば、たとえ親と子であっても謝る誠実さが必要と思うのです。親が子に対して「謝る」ということは、親の権威、威厳を考えると極めて勇気のいることですが子どもの人格と自尊心(自尊感情)を傷つけない極めて大切なことと言える筈です。

子どもにも人間としての人格、自尊心は大人と同等に持っていることを忘れてはいけないと思います。

 

I・叱るのも、誉めるのもタイミングが必要

自分自身を大切な存在と感じとる人間が最近重要視され、主張されています。でも、それが子どもの甘やかしとしか捉えていないような大人の言動も目立ちます。誉めることの重要性が強調されている一方で、叱ることの人間形成上の意義が軽視されがちです。

自尊感情の育みに重要なことは、子どもと真に向き合うこと、すなわち「正対する」ということです。このとき、子どもたちは自己を大切な存在であると感じとるのです。子どもと正対するところに、自尊感情は育まれるのです。「正対する」ためには「誉める」の一方で、「叱る」が重要となります。子どもにとって親は時に、行く手を遮る壁、あるいはストップをかける赤信号の役でなければならないはずです。誉めるだけでは、子どもに正対しているとは言えず、自尊感情も育ちません。「叱る」も、自尊感情育成のキーワードと言えるのす。そこで必要となるのが、「タイミングを見計らって叱る」ということになります。時期(タイミング)を捉えた叱り方は、子どもの心によく届き、また恨みなどマイナス要因を残すことも少ないといえるでしょう。叱る際のタイミングが、よりよいしつけにつながる叱り方の重要なポイントとなるのです。

 

(イ)「タイミングを見計らって叱る」三つのポイント

@「心の支援」につながる叱り方

過去のことを蒸し返して叱れば子どもは、自分の殻の中に逃げ込んでしまいます。話しかけても一切聞こうとせず耳をふさいでしまい、逆効果となります。是非とも避けて欲しい叱り方で、子どもに恨みだけを残してしまいます。

卵から雛が(かえ)る時、絶妙なタイミングを見計らって、親鳥は卵をクチバシでつついて、雛が孵るのを手伝います。これと同じようなことが親子関係に必要なことと思います。

 

A「受容」に裏付けられた叱り方

立場を異にする親と子の両者が、互いに相手を受け入れ、そこから信頼、期待などの新しい何かが生まれます。

共感的な理解が存在しないところでいくら叱っても、子どもの心に響きません。タイミングよく叱るためには、「あなたを受け入れる」という受容の心を吐露するべきでしょう。そうでなければ、時期をとらえて叱ったとしても、タイミングのよい叱り方とは言えません。

受容の心による叱り方の一つとして叱り方を真ん中にして、前後を「受容」と「展望」で包み込むことを提案します。

 

B敢えて叱らないことも「タイミングよく叱る」の範疇に入ります

深く反省し、自分で自分を叱っている子どもをさらに追い込んだり、過去に叱ったことを再び蒸し返して叱ったりする必要はありません。反省し、心を痛めている子どもにとっては、叱られないことが、実はタイミングよく叱られていることにもなっているのです。

 

(ロ)「叱る」基準に一貫性を持たせましょう。

広辞苑によると、怒るは、「いかる、腹をたてると」あります。一方叱るは、「呵る、声をあらだててとがめる、とがめ戒める」とあります。

この二つの言葉の違いの一つに、叱る際の行為には、一貫性があると同時に、冷静さを保つことだと思います。

一方「怒る」には一貫性がなく、感情的であり攻撃的で説得性に欠けるといえるでしょう。つまり、怒られる側にとっては主情的、感情的と受け止められ、説得性に欠けるわけです。

移民国、他民族の国の特性は、各人の行動の自由が保障されていますが公共性への違反や私語など他者の生き方を奪う行為に対しては容赦しないという指針(ポリシー)が明確で社会的に承認されています。

日本の家庭教育の中で常に「優しさ」か「厳しさ」で論議されています。しかし「優しさ」の反対は過酷さや冷酷さであり、「厳しさ」の反対は甘やかしや放任であるように思います。優しさと厳しさは家庭教育の表裏の関係であり、両者の根底には愛情があるはずです。

 

(ハ)叱り方のポイント

子どもを叱るのはなかなか難しいもので、まずはその子とのコミュニケーション、信頼関係が築かれているかが大きく影響します。叱るにあたって、その子を心から愛し、信じていることが基盤となります。叱り方について述べてみます。

 

@くどくどと叱らない。後はカラリと

Aその行為のみを叱る。(過去のことを持ち出さない)

B人格を傷つけない叱り方。(たとえ親子であっても)

Cその場で叱る。(人前、特に同年齢の子どもたちの前で叱らない)

D朝・空腹時・寝る前などは避け、時と場所を考える。

E人のせいにしない。

F他の人と比較しない。(友だち、兄弟)

G叱るだけでなく提案や考えを。

H叱った後は、フォローを。

I時には口出しせず目配りだけでも。

J叱るだけでなく、子どもにも考えさせる。

K叱った後は、なぜ叱ったのか理由を理解させる。

L叱る前に一呼吸を。

M一つ叱って三つ誉める。(認める)

 

ここまでに述べてきました「叱り上手は誉め上手」は、単に子どもに対することのみならず夫婦、対人関係にも当てはまることと思っています。

ただ違うところは時期的に心身の発育盛りであるかどうかであり、後々の人格に影響を及ぼしていくかどうかであると思います。

 

平成17年2月23日、皇太子殿下の記者会見とその翌日の朝日新聞の「天声人語」欄にその内容から子育てについて書かれていました。

殿下が引用されたのは「あなた自身の社会、スウェーデンの中学教科書」の一部分だと思いますのでさらに詳しく全文を載せておきます。

その後、NHK「クローズアップ現代」、「子育て」について放映されました。また、文芸春秋五月号でも関連の記事が載っておりましたのでご紹介しておきます。

 

      けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになります。

      批判ばかり受けて育った子は、批判と非難ばかりします。

      敵意に満ちた中で育った子は、誰とでも争います。

      とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になります。

      不安な気持ちで育てると、子どもも不安になります。

      「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになります。

      子どもを馬鹿にすると、引っ込み思案な子になります。

      親が他人を羨でばかりいると、子どもも羨むようになります。

      叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまいます。

      励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになります。

      心の寛大な両親の中で育った子は、我慢強くなります。

      励ましを受けて育った子は、自信を持ちます。

      ほめられる中で育った子は、いつも感謝することを知ります。

      分け隔てされて育った子は、懐疑心がつよくなります。

      広い心で接すれば、キレル子どもにはなりません。

      誉めてあげれば、子どもは、明るい子どもに育ちます。

      愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学びます。

      認めてあげれば、子どもは、自分が好きになります。

      見つめてあげれば、子どもは、がんばり屋になります。

      分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学びます。

      親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知ります。

      子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子どもに育ちます。

      やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育ちます。

      和気は合い合いとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいい所だと思えるようになります。

 

 

   参考文献と引用: 石田恒良著発達心理学(協同出版)、児童心理学(金子書房)
              朝日新聞
、NHK「クローズアップ現代」

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