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集中力を育てる

「集中する力」と言う言葉のイメージは、わき目もふらずに一つのことに没頭しきっている姿ではないかと思います。

テレビで囲碁、将棋の対局の場面を見ていると対局の始まる直前の正座している両者が盤面に集中している姿は、見ている側も息のつまるような雰囲気になります。それは両者の「集中するための儀式」であるようにも思います。

柔剣道、相撲にしても、取り組む直前に形を整え、迎え撃つための集中力、あるいはまた、野球のバッターボックスに入り、立ち身構える一連の動作もやはり集中するための儀式を行なっているように思います。

相手と対決する。このときの自信が勝敗を左右する場合が多くあると聞きます。相手の集中力を切らないことには勝敗はやってこない勝負の世界では、集中力をなくした方が負けになり、強靭な精神力が必要であると言えるのかもしれません。

通常、私たちや子どもたちの場合、短い時間に多くのことをするのではなく、当面の小さい目標を丁寧に少しずつやっていくことが大切です。そして気づいた時には時間がたっていたということになるとのだと思います。

力を抜いてリラックスした気持ちで自然に高まる集中力を身につけることが大切だと思います。そのためには

@面白い出会いがある。

A自ら主体的に選べる。

Bそれが楽しいと思える。

Cそれに夢中になる。(慣れる。)

Dそのときが瞬く間に過ぎる。

などの豊富な経験が必要です。何をするにも左右されるのが集中力で今回は、「集中力を育てる」取り上げてみました。詳しく述べるためにいろいろな文献を引用、参考にして子育てにお役に立つようにしました。少しでも参考になることを願っております。

A・不定愁訴と集中力

睡眠不足や疲労は注意力や集中力を低下させることはよく知られています。

「不定愁訴」について調べてみますと眠気、だるさ、頭痛、腹痛、下痢、便秘、注意・集中力の低下等の心身の自覚症状ははっきりとした病気によるものではなく、体のどこかがただ何となく具合が悪く、気分や体調がすぐれないといった状態を示すものでこれ等を不定愁訴と言われているそうです。

不定愁訴の高い状態は意欲や注意、集中力を低下させ、活動やおけいこ(学習)の効率などに影響を及ぼすと言われています。

大人だけの症状と思っていましたが子ども(幼児期)にも起こりえると聞いています。体調不良の状態が長く続くと健康が損なわれることも考えられます。

心身ともに健康であることは、日常生活のあらゆる面で注意力と集中力を高め積極的な生活を送ることが出来ます。それには日常の生活習慣が大切になってきます。これについて箇条書きに述べてみますと次のことが言えると思います。

@規則的な起床時刻(起こされることなく、自分から起きる。)

A規則的な就床時刻(いわれなくても自分から就床する。)

B規則的な排泄(習慣的に決まった時刻に行なう。)

C規則正しい食事と摂取量(偏食のでない配慮を行なう。)

D体を動かす適量な運動

E家庭での良好な人間関係

これ等は基本的な生活習慣といわれ、就学時までには確立されておかなければなりません。小学校入試の際の面接でよく問われるのも集団生活で必要なためなのです。

なかでも成長期の子どもにとって睡眠覚醒リズムや質のよい睡眠の確保は極めて重要といえるでしょう。また、規則正しい排便は生活のリズムを整える上からも極めて望ましい生活習慣といえます。

このように考えると、幼児期のうちから生活のリズムを整え、望ましい生活習慣を確立させて欲しいと思うのです。

(イ)睡眠と起床の習慣

睡眠時刻には個人差があります。少なくとも幼児の場合は、八時ごろまでに寝かせるのが理想的と言われています。睡眠時間は11時間〜13時間で年齢とともに減少しますが、これは昼寝時間の変化によるところが大きいです。幼児は十分な睡眠を取れば起こされなくても目が覚めるものです。「起こさないと起きない」ようでは質の高い睡眠を取っているとは言えないでしょう。

(ロ)排泄の習慣

1歳半になれば便意を事前に予告できるようになり、おむつを離脱させることが可能になります。この機会を待ってしつけを開始(10ヶ月〜13ヶ月)しなければならないことは当然といえるでしょう。排便行動の自立は3歳半から4歳にかけて達成されるのが普通です。ほぼ一定の時刻に排便行動をとらせるには気長な訓練としつけが必要です。

5、6歳ともなると毎日の生活習慣の一つとして確立されていなければなりません。

(ハ)食事の習慣

食事の規則性は3歳までに、食事行動は3歳半までに自立します。

偏食の発生は生後4〜5ヶ月から好き嫌いが現れます。離乳期による好き嫌いの原因は母親の育児態度によるところが大きいといわれています。

乳幼児期の3〜4ヶ月を過ぎるころから神経性の食欲不振が始まります。親の食餌の強制である場合が多く、また、弟妹の出生により母親の愛情の独占が脅かされる事態になると食欲不振が生じることがあるそうです。一種の嫉妬反応といえます。

食餌に関する異常には、偏食があります。偏食の発生は、早くは、生後4〜5ヶ月からみられますが離乳期になると離乳食に対する好き・嫌いが現れるようになります。原因は親の育児態度によるところが大きいといえます。

偏食の矯正に当たっては、しつけの改善が大切です。食べたがらない物の代わりを与えることは大いに慎まなければなりません。「食べたくなければ食べなくてもいいよ。」ぐらいの気持ちが必要です。また、規則正しい間食を与え、運動による空腹感をもたらすと同時に、食事の雰囲気を明朗にすることが必要です。

(ニ)家庭での良好な人間関係

幼児は独立した固体であるといっても、依然として親に対する依存的関係を絶つことはできない無力な存在です。自分の要求が親によってどの程度満足させられるかによって、基本的な行動様式を形成していきます。望ましくない親の態度(否定的・過保護的・過支配的・溺愛的・矛盾不一致的など)は、好ましくない特性(発達遅滞・適応困難・反抗的・情緒不安・依存的・神経症的など)を子どもに生み出し、その逆は好ましい結果を生じると言えます。これは、養育態度の特殊な技術というよりも、全体的な親の子に対する態度・雰囲気が子どもの人格発達に影響されます。

幼児期の親子関係は、愛情をめぐる問題であることには間違いありません。幼児にとって、欲求の充足は賞であり、愛情が与えられることを意味します。欲求の阻止は罰であり、愛情が拒否されたと受け取られる場合が多いのです。しかし、幼児期のしつけは、まさにこの欲求の統制が中心となって展開します。ここに幼児の難しさがあるといえるでしょう。幼児はやがて自己の欲求を統制することが、親の喜びをもたらし愛情を得ることを学習するようになります。適度の欲求阻止の経験は、望ましい性格形成に必要であって、子供の発達水準に応じて、そのような経験を与えていくことが必要です。

 

B・集中力を育てる人間関係

 数年前、日本経済新聞で一ヶ月続いた「私の履歴書」に電卓メーカーで有名なカシオが企業として発展してきた様子を描いた記事を読んだことがあります。

樫尾家には四人の兄弟がいてそれぞれ気質が違っていたそうです。それがうまい具合に作用して、次男の発想を長男が旋盤で形にし、三男と末の弟が営業に出て協力し、電卓の開発がなされたそうです。

私が興味を持ったのは次男の集中力と三男、四男の人間関係とそれに対する母親の態度です。

次男は幼い頃から、考え始めるとずっと家にいて、外に遊びに行くこともしなかったそうです。活動的な三男が外遊びから帰ってくると、遊びに出て行った時と同じ姿のままで次男は座って考え込んでいたといいます。母親は、四人の性格の違いを面白く感じ、次男を外で遊ぶように追い立てるようなことはしなかったといいます。

専門分野で名をなした人には、人には真似の出来ないような努力や人並みはずれた集中力の発揮を見ることが多いですが、それにはどのような人間関係が関与しているのでしょうか。

(イ)見つめることと集中力

心というものが子どもにあるのかないのかどうかという時代から、子どもは「注視」をします。「注視」とは漠然と眺めるのではなく一種の集中力を要するものです。生後五日前後の生まれたばかりの子どもでさえ、二つの黒点や人の顔の方をじっと見る実験結果があります。人は、生まれたての頃から人間により敏感に反応し、じっと見つめるのです。母親が赤ん坊に授乳するとき、赤ん坊は母親を見上げ見つめながら一心に乳を飲みます。乳を飲むことに没頭しつつ、母親を凝視しています。母親もまた、抱いた子どもを見つめ返します。このように「見つめる」「見つめ返される」という関係は、子どもにとって人間関係の根源的なものとされています。子どもの母親への凝視は、母親だけでなく見知らぬ人の顔にも向けられます。町や乗り物の中で出会った赤ん坊にじっと見つめられるのは誰もが経験していることでしょう。こちらが微笑んだり、うなずいたりすると、さらにじっと見つめられてこちらがきまり悪くなるほどです。このような「凝視」は後の集中力に関係しているのではないかと言う心理学者もいるほどです。

 (ロ)集中力と人間関係

このように、養育者(特に母親)との人間関係が、集中力のみならず子どもの発達に非常に重要なものであることはよく知られています。

子どもが母親に抱いてもらったり、後追いをしたり、母親から離されると泣いたりするような行動を心理学用語では「愛着行動」と呼ばれています。愛着行動はほとんどの哺乳動物の子どもにも見られるそうです。

代表的なものの一つに赤毛ザルの実験があります。赤毛ザルの子どもは触り心地のよい布製の代理母(人形)に多くの時間抱きついており、離れていても見慣れないものに驚いた時は代理母のもとに急いで戻ってくるそうです。

ここで重要なのは、子どもの愛着要求を尊重することであり、愛着行動を示したときは、充分にそれに応えてやることです。愛着とは「特定の個人、あるいは少数の特定の人」に向けられます。これは愛の芽生えともいえます。このような子どもの愛着欲求が応えられると、子どもは安定して、自分にも他人にも信頼的になることから、赤ちゃんの時代(生まれて三歳頃まで)にしっかりと愛されて世話をされることによって育まれるのは「基本的信頼感」であると心理学者エリクソンは述べているのです。要するに、母親が普通に子どもを愛する行動をとれば、子どもは愛着行動を育み、基本的信頼感は育つのです。子どもを愛している母親は、子どもを見つめると見つめずにはいられず、子どもが手を伸ばせば(そうでなくても)抱いてやりたくなると思います。

愛着行動のしくみにはもう一つの側面があるとも述べています。

母親が一緒にいたり、どこにいるかわかったりしているとき、子どもは愛着行動を示さず、探索行動を示します。このことを「母は安心の基地である」という言い方を心理学者エリクソンは述べています。

「母がいるから夢中になれる。」と安心の基地があれば、子どもは何かを探索することに集中できるのです。つまり「二人いるから一人になれる。」と言うことになるのです。子どもが集中することができるには、まず母親(父親)との心の絆が必要であると考えられます。

ごこう幼児教室では父母の参観が自由にできるようにしてあるのはおけいこの進行のようすを参観できるばかりでなく、子どもにとって「親がそこにいるから夢中になれる・集中できる」という親子の信頼関係(絆)を意識し、大切にしているからです。

 (ハ)遊びと集中力

田舎育ちの私は、幼い頃、虫取り網を持って野山を駆け回り夢中に遊んだことを思い出します。

好きなことがあるということは、自分の好きな遊びに集中できるということになります。愛着行動の形成によって母親との心の絆ができている子どもは、安心の基地を内在化して、外へ出て行きます。つまり、遊びが活発化されていきます。そしてその遊びに集中するのです。

時を忘れ、自然の中で遊び、没頭している時、そこには「夢中」があり「集中」があります。

幼い子どもの遊びでさえ、成人の「集中」にも似た引きこもりに近い状態が時としてあるものです。子どもが存分に遊ぶ中で集中力を培っていると考えられます。

樫尾家の四兄弟の次男は外遊びをしない子どもだったらしいですが存分に集中して考えていた、本人にとってはおそらく「考える」ことが遊びにも似て好きなことだったのかもしれません。

今の子どもたちは存分に遊んでいるでしょうか。寝食を忘れ、時間を忘れ、挙句の果ては母親に叱られる経験があるのだろうかと思うことがあります。一昔前までは、夕刻ともなるとあちこちの路地裏でそれぞれの子ども集団が思い思いの遊びでにぎわっていたものでした。

(ニ)集中力を護る人間関係

遊ぶことには集中力が関与していると述べていますが親にとって、実際には好きなことや遊びには抵抗があるものです。

樫尾家の母親は次男が部屋の片隅で考え始めても、それを止めなかったそうです。同じようなことをしていて、それを止める自身がありますか?私もそうでしたが親のほとんどはその自信が持てないのではないでしょうか。

「子どもは風の子でしょ。外でお兄ちゃんやお友だちと遊びなさい。」と言ってしまいそうです。

築いた信頼感に基づく人間関係に支えられて好きなことを認めてくれる親が、そして他人がいてくれれば遊びに存分に熱中することができるでしょう。そしてその子の人生を大きく変えるのではと思います。

社会でそれぞれの専門分野で活躍している多くの人々の幼少期の背景には多かれ少なかれ「よき理解者」がいたように感じています。

生まれつきの集中力の違いというものが他の能力と同様にあると想定しますが子どもはもともと人への注視に見られるように、集中力があると思われます。一人遊びに始まり、友人との遊びに発展していきます。遊びは、集中力を育む基礎であるといえるでしょう。この集中力を発展させるには、子どもの集中力を認めて、励ます存在が必要です。そのような人間関係があってこそ集中力はいかんなく発展させることができます。少なくとも邪魔しないで見守るという関係が必要と思います。子どもが集中しているときは、そっとしておく配慮もまた子どもの集中力を護ることだ思っています。

 

C・持続させるやる気の条件

子どもがいったん学びなどにやる気になったとしても、それを長く続けることは難しいものです。やる気がなくなったり、消極的であったり、そもそもやる気がないことにも、消極的であることにも、その子なりの意味づけ(理由)があるはずです。ですから、一概にやる気を出させるだけがよいこととは限りませんが、やる気にならないことで、その子の学習の機会が奪われることもあるでしょう。

では、やる気を持続させるにはどのような条件が必要でしょうか。

ここでは、子どもの持っている要因と、それをとりまく環境、特に人的な環境(親や祖父母、先生)について考えて見ることにします。

(イ)子ども(学習者)の要因

人が目的を達成しようとするときには、二つの目標を立てて行動すると言われています。

達成目標の一つは、学習目標と呼ばれ、自らの能力を理解や努力を通じて伸ばすことです。

もう一つは遂行目標で、自分が優れていることを示して、自分の能力が低いことを表さないようにすることです。

学習目標を持つ子どもは、失敗に強く粘り強く努力するといわれています。一方遂行目標を持つ傾向にある子どもは、自分の能力に自信がある場合は努力しますが、能力に自信がない場合には、失敗すると、能力が低いと判断されてしまうために、難しい課題を避ける傾向があるとされています。また、失敗したときに、無気力になりやすいとも言われています。そのため、できるだけ遂行目標を強調せず、子どものやる気を持続させていく意味から、学習目標を育てることが大きな意義のあることと思っています。

学習目標を持たせるため、具体的な方策を家族(両親や祖父母)や先生との関わりの中から述べてみます。

(ロ)自己効力を高める

「今度の日曜テストで90点以上を取る!」というような目的がはっきり決まっているとき、そのためにたどり着く努力が必要です。努力や行動をとれる期待、自信が高いときは、難しい課題に直面しても自信を持って行動でき、やる気(自己効力)は持続すると言われています。

したがって、自己効力を高め、それを維持させることは極めて重要といえるでしょう。

自己効力を高めるポイントにはいくつかありますがその一つに学習するときの気持ちを奮い立たせるか、逆に気持ちをリラックスさせて不安要因を取り除いてあげるかのいずれかです。

難しい課題に直面したときには、少し休憩を取るのも大事です。反対に似たような子どもが難しい課題を成し遂げているのを見て、やる気を奮い立たせることも場合によっては役立ちます。

運動や制作問題に取り組んでいる最中に他人の行動を観察してその子の行動を学習する場合もあります。

自己効力を高めるには、身近な自分と似ている子がいて、その子が成功し続ける様子ややる気を持続させているところを見て学習します。また、逆に、失敗した様子ややる気を失っている子を見て「あんな子になりたくない。」と気を引き締めて課題に取組み、集中するようになることもあります。いずれにしても良い面も悪い面も学習するようになります。そして、「やれば出来るかもしれない。」から「やれば出来そうだ。」に変わり、やがて「やれば出来る。」と思い、心に変化が起こり自信が出てきます。そして、やる気を持続させる可能性が出てくるのです。
ごこう幼児教室が当初から取り入れている多人数対象の一斉のおけいこ指導はこの点を重視して行なっているのです。

(ハ)学習(おけいこ)の支援

「やる気」と言っても、本人が余り自覚していない場合も多いものです。これを自覚させるような働きかけが親をはじめとして周囲の大人たちが支援する必要があります。

親が自分の感情や他人の感情を幼児に言葉で表現して意味づけをすることがしばしばあると思います。この場面を親が多く持つことは、自分の感情をはっきりと意識したり、言葉にできたり、さらにはそれを調整したり制御したりするようになります。

学習(おけいこ)をする前に「今どんな気持ちでいるのか。」、「その気持ちの結果はどうなるのか。」を考えさせる関わりを機会あるごとに行なうと、漠然とした「やる気の無さを」を自覚するようになります。そのうちに自分から進んで学習 (おけいこ)するようになります。ここで大切なことは親が子どもと同じ立場になって関わることで、決して支配者的叱り言葉の説教じみた言葉の内容にならないことです。

(ニ)援助要請について

子どもにとって「やる気」を失わせる原因に学習(おけいこ)のつまずき、量的な負担、精神的な疲労感等々があります。ここでは学習(おけいこ)のつまずきについて述べてみます。

難しい問題にさしかかったら、そこでくじけて中断するか、もっと易しい課題に戻って取り組むかもしれません。そのような場合でも適切なアドバイスやヒントを与えてくれる人がいると頼りになり、安心感を持つものです。わからないことを尋ねにきて「こんなことがどうしてわからないの!」と一方的に言わず、子どもの抱えている問題を正確に把握し、受け止めてくれることが大切だと思います。

わからないところは納得するまで程度(難度)を下げてとことん教え、できるところは本人の自主性、主体性に委ねることです。つまり、わからないところは接近し、わかるところは遠ざかる両者の使い分け(テクニック)が大切で、これが積極的に取り組む要因になると思っています。

(ホ)援助の環境

学習(おけいこ)目標を持っている子どもは、粘り強く、努力します。そのために学習(おけいこ)目標を育むことが子どものやる気を持続させるコツにつながるといえるでしょう。では、学習目標を育てるにはどうしたらよいでしょう。

まず初めに考えられるのは、知的好奇心を促し、理解を進めるような教材でなければなりません。出来るだけ自力で解ける機会を多く持たせ、「出来る喜び」、「できた満足感(達成感)」を持たせることではないかと思います。できる喜びは意欲につながり、やがては自信に結びつきます。学習(おけいこ)の締めくくりは「評価」に相当するものです。評価の仕方によっては意欲をそがれ、やる気を失うことにもなりかねません。子どもは、他人との比較によって能力を高めるものではありません。その子自身の能力の成長を目指すのが目的だと思っています。

友だちとの比較や学習(おけいこ)の様子や在り方に頻繁な注文をつけたり、批判めいたことを言ったりすると意欲をなくし積極性もなくなっていくでしょう。子ども自身の以前の状態と現在の状態を比較しながら、その進歩を積極的に誉め、アドバイスしていくことがやる気を高めていくコツと思っています。ごこうでは、学習したプリントに誉め言葉の一筆を書くのも子どもへの満足感を与えるためです。

(へ)落ち着きのない子とは

落ち着きのない子どもには、注意、集中力が弱い・行動的動きが多い・表面的な感情を表す、といった傾向が共通しています。その原因としては、家庭環境によるもの、つまり生活環境が落ち着かない・転居が多い・玩具の与え過ぎ・過干渉的な家庭と疾患的なものがあります。

落ち着きのない家庭環境に原因がある場合には、環境を整えなおすことが必要です。夫婦の不和が落ち着きのない子どもを生み出すこともあります。家庭の雰囲気の改善を図るべきでしょう。人見知りの経験がほとんどなく行動の激しい子どもの場合、周りの大人が、そのような行動が元気のよいものとして評価する場合が多いようですが、自己批判を中心に対人関係では控え目な行動も必要であることを教えなければなりません。


D・集中力を育てるために

嫌なことは大人でさえも没頭できず、集中できるものではありません。まして子どもについてはなおさらのことと言えるでしょう。そのことに関心を持ち、面白く、楽しく、そして引き込まれ、没入没頭することが集中するための条件といえるでしょう。

(イ)お話の読み聞かせ

幼児期の本(絵本)の読み聞かせは「聞く」「見る」「想像」等の集中力を高める面では最適といえます。また後々の本好きの基にもなります。

「登場する人や動物」「いつの頃」「どこで」「どんな事」等を読み手は明確にしながら読み聞かせをすることが大切です。

子どもがどこまで立ち入って聞いてくれるかは、どのように読んであげたらよいのかで随分違うものです。絵本の絵を見せたり、その場面や情景、主人公の心情を想像させたりと間を充分に取りながらゆっくりと、感情を込めて読み聞かせることが理想的です。特に子ども一人ひとりの「想像」は感受性の強い子、弱い子の程度の差によって異なります。日常的な本の読み聞かせが、間性を高め、想像力を高め、やがては本に興味を持つようになり、本好きになっていく動機づけとなります。

教室のおけいこの読み聞かせは、お話し(お話の問題)の機会をできるだけ多く取り入れ、変化をもたせるように心がけています。集中力のない子どもたちや飽きやすい子どもたちをおけいこに引きつけ、やがては注意して聞くようになり、集中力が高まると思っています。

(ロ)きまった時刻にきまった分量を

子どもを中心にした1週間の過ごし方、さらには一日の過ごし方の中で、計画を立てて生活している家庭も少なくないと思います。この計画の中できまった時刻に「おけいこ」をする時間帯を組み込むのが理想的といえそうです。つまり、その日その日の目標を明確にすると同時にできるだけ決めた時間帯におけいこをするのが望ましいのです。

計画性を持たせ、おけいこの習慣をつけることに意義があるのです。その日の目標を明確にせず、計画性もなければ、「今は気分が乗らないから後でする。」とか「明日まとめてするから今日はやめにする。」などと気ままなおけいこになるばかりでなく、力はなかなかつきにくいものです。気分の乗らない時にしてこそ精神的な忍耐力の訓練になります。また、今日の分を明日まとめてするのは時間的に、分量的には理にかなっていますが幼児の注意・集中力は多少の個人差はあるにしても、せいぜい15分から30分程度です。おけいこをまとめてしても集中力の面で疑問が残ります。それよりも決めたことは「しなければならない。」という責任感、義務感を身につけさせることが何よりも大切であり、計画性のある決まった時刻に決まった分量のおけいこを日常的にする習慣が大切と思います。

一般に責任感、義務感の強い子は注意力も集中力も高いと言えます。

(ハ)「答え方」について

ごこう幼児教室では、○や△や×をつける答え方は常に「丁寧につけましょう。」と機会あるごとに注意を促しています。その理由は注意力と集中力を高めることにあります。

「書く」ためには、集中して取り組むことを意識づけなければなりません。一つひとつを丁寧に書くことで集中力が高まるのです。集中するためには気を落ち着かせることで、落ち着いていなければ「丁寧さ」は出てきませんし注意力も集中力も高まりません。

就学すると「書写」というものがあります。書写は文字を一字一字を丁寧に書く作業が基本です。注意力と集中力がないと満足のいく書写はできあがりません。単なる字形の練習に終わってしまいます。「丁寧さ」は、一字一字をお手本の通りに正確に書く目的意識を持たせる注意力、集中力の第一歩となるのです。就学して、ひらがな、カタカナ、漢字と習い始める頃になると「はねる・とめる・はらう」等に気をつけて書かなければなりません。そのためにも、今のうちから気持ちを落ち着かせ、集中させて取り組ますようにしなければならないと思うのです。

(二)無理のない目標を立てる

@具体的でわかりやすい達成可能な目標

問題集を買ってきて「今日からこの問題集を少しずつして今月中に終わるように。」と親のペースで言われれば子どもは恐らく溜息をつくでしょう。そして、はたして言われた通りに今月中に終わるでしょうか。幼児のことです。綿密な計画は立てられません。長期にわたる自立したおけいこは持続できません。一日一日の達成可能な目標をもとにした分量を決め、その都度教材を与えてあげると意欲も、やる気も出てきて集中して取り組むようになります。
 幼児とっては、「目標は身近なところに」が、ごこう幼児教室の考え方です。

A理想と現実のギャップに気をつけましょう。

「この程度の問題はわかって欲しい。」「こんな問題ができなくて情けない。」と愚痴を言うのは子どもが可愛そうです。愚痴を言う前に親の尺度(考え)で正しさを求めようとしていないかを考えてみましょう。もし、理解に苦しんでいるようであれば一段も二段も程度を下げた類題を作って与える努力が欲しいものです。やがてできなかった問題ができるようになれば、子どもは達成感を喜び、自信を持ち、積極的になるでしょう。常に少しの努力で達成できるレベルに設定し、スモールステップを重視したおけいこを心掛けるようにしたいものです。

ごこう幼児教室の教材は長年の実践と実績に基づいた経験から生まれたスモールステップ方式を重視して、できるだけ無理なく吸収しやすいように少しずつレベルを上げながら反復のおけいこが進めるよう編集してあります。

Bおけいこに過度の負担をかけない

時間的に、量的に親の主観的な考えのもとでおけいこをさせるのは禁物です。幼児は注意力、集中力の持続性は大人と比べ物にならないほど低いことを常に意識しなければなりません。課題を少なくするとは心理的に「やり終えることができるかもしれない。」という意気込み(積極性)と自信を持つと思います。つまり多すぎない課題は集中して取り組みやすく、親にも子どもにも進歩状況がわかりやすいといえるのです。

C常にわかりやすい評価を

できなかった問題、わからなかった問題ができるようになれば子どもはどれだけ喜ぶでしょう。加えて親の励ましの評価があれば意欲も出て自信も湧いてきます。また、結果の適否は子ども自身がよく認識しています。結果の悪い部分をくどくどと指摘するのは考えものです。もしかして再度取り組ませるとできるかもしれません。この時に、子どもは自分なりに進歩状況を認識するようになるでしょう。

 

E・幼児期の知的発達と学習態度の形成

幼児期は次の学習期といわれる知識欲のもっとも旺盛な児童期の始まりといえます。知識獲得の備えは一通り完成します。歩行や言葉の習得とあいまって、この時期は感受性の発達とともに、知覚の働きも著しく高まります。記憶力も増大し、注意力も深まる一方、想像の働きも出てきます。したがって興味の範囲も拡大し、幼児の経験する内容は著しく多彩になってきます。このような心的な働きの諸相の進歩的変化を基に、子どもの思考も着実に発達します。幼児独自の具体的なものの操作による思考が中心的ですが概念の操作による思考も姿を見せ始めます。

知的発達とは、子どもが周りの環境を理解し、これに対処する場合の心的過程、すなわち認知の発達です。認知には知覚・記憶と注意・思考・言語などの諸機能が含まれています。

 

父親の、母親の存在

親が子どものしつけを放棄しているかに見える一因に「学校は勉強するところ、学ぶところであり、子どものしつけは家庭が担うべきである。」が一昔前まで(昭和30年頃まで)は社会の一般的な常識であったと思います。が今では「しつけも社会的道徳も学校が担うべき」という考え方を持っている親も少なくないと聞いております。

子ども同士のいさかい(トラブル)でも当人同士、百歩譲っても親たちの間で解決していたものでした。現在では学校に持ち込むケースが多くなっていると聞きます。学校はと言うとどんなに些細な問題でも聞き入れ、腰を引いてしまうと聞いています。このようなときでもまず兄や姉に、場合によっては母親に、それでも解決の糸口が見出されない場合は最終的に父親に相談して対処するものでした。

そう考えると、家族の絆は今より昔のほうが強かったのではないかと思っています。

「親は子どもの人格、人権を尊重し、同等に付き合うべき。」との説が戦後ますますかまびすしく言われてきました。父親は友だち的に、同等の立場での口のきき方をしている家庭も少なくありません。このような環境にあって、子どもは親(特に父親)を畏敬の念を全く持たず、同等の、もしかすると「自分と対等な立場」と考えている子どももいるのではないかと思うことがあります。これが「子どもと同じ立場にたって理解してあげる良い父親」と考えている父親もまた少なくないようです。

「親と子は同等である」と考えているとすれば、ここに問題の根幹が潜んでいるように思います。

 

A・長幼の序

(イ)今と昔の親の子育てと考え方

家族を支えている者(父親)と支えられている者をくどくどと話しては長幼の序の概念を植えつけようとしても果たせるものではありません。先にも述べたとおり、家族に何か問題が起こったとき、家族を中心にして父親が矢面に立って解決に当たる。そして父親としての責任を果たす。これをあえて言えば「家族力」といえるでしょう。

この中から兄や姉の絆、父と母への絶大な信頼感が生まれると思うのです。この信頼の中から「長幼の序」という意識が自然に出てくるものと思うのです。

昭和四十年ごろを境にして父親の威厳は色あせたように思います。経済の高度成長にともない所得の代償は労働時間の延長で父親は家族、とりわけ子どもたちと関わる時間が少なくなりました。同時に食事時に父親がいるのがまれとなり、存在感が薄くなってきたのは当然といえましょう。しかし、世の中がどのように変わろうとも、子どもに対して父親の価値観、母親の価値観を認識させ、毅然と教え込むことは子どもの今後の人生に少なからずよい影響を与えるものと思っています。

(ロ)絆とは

ビートたけし(本名北野武)の兄北野大の母親は教育熱心で「明日の百を見て教育に投資」を子どもたち四人に教育を行なったと、ある本で読みました。父はペンキ職人で決して楽な生活でなく、近隣の友だちからは馬鹿にされながら育ったといいます。「家貧しくて孝行顕わる」という言葉があります。裕福な家庭で育った子どもは少々親孝行をしても目立ちませんが家が裕福でない場合は、親孝行がはっきりとわかるという意味に解釈できるでしょう。また貧しい家庭には孝行者が出て逆境にあるとき、助けるものが現れるという意味も含まれます。

教育こそ全てという母親の信念のなしえた業といえるでしょう。

北野大の母親は口癖のように子どもたちに次のような言葉を言っていたそうです。

@稲穂は実れば実るほど頭をさげる。

A自慢、高慢は、馬鹿がする。

B威張ってはいけない。

子どもたち四人は、これ等の言葉を何の疑いも持っていなかったそうです。家庭の絆、親子の絆、ひいては兄弟姉妹の絆と人間関係の絆がありますがそれぞれが互いに強く絡み合い、より強い信頼と愛情を感じ合っていたのだと思っています。

(ハ)父親の存在

古い考えのようですが、一家を支える父親を重んじる生活をして欲しいものです。リビングルームにも一家の主にふさわしい居場所を作ってあげて欲しいのです。たとえ長い出張で留守をしがちな父であっても居場所は確保してあげてください。かく言う私にも狭いながらも食事をする時の居場所、仕事をする時の居場所は結婚当初から確保し、子どもに占拠されることもなく現在に至っております。

一家の主である父親を重んじなければ「長幼の序」という初歩的な人間教育を子どもに体得させることは出来ないと思いつつ子どもを持つ母親にお願いしたいのです。

言葉や文字を通して伝えるのは「教え」または「戒め」で、おりに触れ、親が身を持って具体的に教え、体得させる教育が「しつけ」といえるでしょう。

夫が座る「父親の椅子」は肘掛け椅子にし、ほかの家族の人はなくてもよいのです。父親の権威と威厳を幼い子どもにもわかりやすく形から示すわけです。

このようなことを言うと、平等主義的な親の批判をうけるでしょうが男女平等の世の中といえども、規範というもの、ルールというものはいつの時代でも厳として存在し、父親には父親の、母親には母親の役目、役割、責任があると思うのです。それによって家庭の秩序と平和は保たれているものと思っています。

「お父さんに聞いてからね。」「お父さんの許しをもらってからにしましょう。」と母親が言えば、「それは無理だよ。駄目だよ。」と言われればその件は落着となり、最終の決定権は父親の役割であることを子どもに認識させ、父親としての威厳を常に保っておかなければなりません。それは、母親の役目であると思います。父親の存在を無視しての日常生活の「序列」というものを教えることはできません。

母親が父親の言うことに従っている姿を幼い頃から子どもに見せることによって、親の意見を素直に聞くようになるものです。

戦後改革の一つに旧家族制度を廃止で家長を否定していますが疑問点のひとつに「孝行」が挙げられます。

日本少年研究所が平成八年に行なった『日米中の高校生の親孝行に関する調査報告』によると、親が高齢になり、健康状態が悪くなり、日常生活の助けが必要となった場合、どうすべきかの設問に対して、「どんなことをしてでも面倒を見たい。」と答えたのが以下の数字です。

約十年前の資料ですが日本の場合、現在でもよい結果が出るとは思えません。

  中国・・・・66.2%

   米国・・・・48.4%

   日本・・・・15.8%

(ニ)母親の存在

「少しは反省しなさい!」「反省したの?」と口癖のように言っているお母さんはいませんか。

「反省」について辞書で調べてみると、自分の行いを省みること。あるいは「自分で自分を観察することと書かれています。日常親(特に母親)が「反省しなさい」と言うときは、振り返り熟考するというよりも、マイナス的言動について反省を促す場合が多いように思います。プラス面も含めた総合的な「反省」が本来の反省であって、どこが駄目で悪いのかを振り返り洗い出し悔い改めさせる「反省」を強要するのは疑問に思います。もし、母親が感情的になって「少しは反省しなさい!」と子どもに言うとすれば子どもは素直に反省するでしょうか。何らかの形で反発し、親子には不愉快な気持ちだけが残るでしょう。

 今では死後のようになっている「慈母厳父」と言う言葉があります。父親に厳しく叱られ、しつけられている時、その逃げ道に母親が慰め、諌めてあげると子どもはどんなに救われることでしょう。父親の言うことを肯定しながらも子どもをかばう母心は、愛情で包み込む優しさに子どもにとってなにものにも勝る基地となるのです。

乳幼児期は母親の影響を強く受けるものです。これに対して父親の影響を強く受けるのは、以後、精神的にさらに成長する児童期以降になる場合が一般的です。

中国から伝えられた孟子の「家に三声あり」という言葉があります。三声とは、働いている声や物音、人の声や赤ちゃんの声、読書の声をさしています。母親の料理を作り始める大根を刻む音で目が覚め、家族それぞれが活動を始めます。そこには家族の人間関係の強い絆を想像するのは私だけではないと思います。

 参考文献:発達心理学(石田恒好著・共同出版) 日本経済新聞 文芸春秋児童心理

         
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