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子育てとしつけ

躾という漢字は国字(日本で作られた文字)で花のように身を美しく見せ、わが身に益があるように、自分のためになるような意味があります。躾は、わが国特有の礼儀作法であり文化であると思います。

「しつけ」を古語辞典で調べると

@仕付け糸の意味が冒頭に書いてあります。次にA嫁入りの意味が書いてあり、Bに礼儀作法の意味が書いてあります。嫁入り修行が転じて礼儀作法に転化したものと考えられます。

現代では、「しつけ」とは人間と一緒に暮らせるようにペットの犬や猫を「調教」する意味としてとらえられています。礼儀作法から調教まで、両極端ともいえる「しつけ」について本当に必要で大切なのか、改めて考えてみたいと思いました。しつけの悪さを夫や妻にたしなめられれば、真摯に受け止められず「なぜそうしなければならないのか。」と思う反面「しつけ上手になろう。」と相反することを考えたりもします。

叱ったり、誉めたりして人の動きを正そうとすることは今も昔も変わっていません。相手が子どもであっても大人であっても「そう簡単にはいかない。」との思いを抱くのは当然といえるでしょう。

「叱り下手」を恐れず、もっと子どもを叱る時は「叱り上手」でありたいと願うのは子を持つ親であれば誰もが望むテーマだと思います。今回は、しつけにともなう叱り上手と叱り下手について述べてみます。

これからの子育てと間接的な入試準備の一助になれば幸いに思っています。

             ごこう幼児教室/御幸

A・叱り上手と叱り下手

昔(戦前)の親は、問答無用で叱り過ぎる子育てをしてきたように思います。それはほとんどの場合が親の主観で怒っていたように思います。(私の年代のほとんど多くがそのように記憶しています。)半世紀以上を過ぎた現在、いつのまにか子どもを滅多に叱らない、あるいは子どもは叱れない時代になりました。叱られた経験の少ない子どもが親になって、叱らなければならない場面で叱り方もわからず、ただ狼狽する親も少なくなってきたのではないかと思っています。

叱ることと誉めることとは、どちらが難しいでしょう。誉めることは、誰もがあまり考えませんが叱ることは諸刃の剣で上手に叱れば教育的効果は生まれますが下手に叱れば効果が上がらないどころか子どもの心を傷つけ、反発し良好な親子関係を損なうことになるでしょう。また、叱り下手の極限は、虐待と呼ばれる行為であるかもしれません。

虐待にも二種類あります。その一つは、身体的虐待で、暴力であり体罰です。もう一つは精神的虐待です。どちらにもしても子どもにとって肉体的な苦痛、精神的な苦痛を与えることには間違いありません。

(イ)「怒る」と「叱る」の違い

「怒る」というのは非難や攻撃であり、そこには教育的効果の配慮や意図した行為はみられません。非難や攻撃は相手の人格を否定し、人権をも否定する行為であると思っているからです。たとえ幼児であっても人格、人権は尊重しなければなりません。

怒りの感情を爆発させては相手の感情を必要以上に刺激し、反発する気持ちや(かたく)なに防衛する態度を引き出すことになります。

一方、叱るというのは、非難や攻撃ではなく、教育的効果を意図し、相手をよりよいと思われる方向へ高めていくことだと思います。反発したり、防衛的に身構える姿勢をとったりする相手でも、素直な心理状態であれば、気持ちにしみこんで受け止めてくれるでしょう。

「叱る」ということは、感情をぶっつけることではありません。子を持つ親達は是非ともこの違いを心得ておきたいものです。

なぜ叱る必要があるのか、叱ることでどのような効果が期待できるのかを叱る前に冷静になって考えることが大切ではないでしょうか。

(ロ)叱られるということは

子どもの側からみると「叱られる」ということになりますが、子どもの心と行動の望ましいあり様を願って大人は叱ります。しかし、叱る意図とは裏腹に逆の影響を与えてしまうことも少なくありません。そこで、子どもの側からみた「叱られる」とはどんなものかを述べてみます。

叱られるのは、子どもにとって嫌なものです。誤解によって叱られるのであれば、理不尽さへの怒りや不満、信頼されないことへの失望感と深い悲しみをもたらすでしょう。

通常、悪いことをした時、子どもは充分意識も反省もしています。なのに、頭ごなしに叱られたりくどくどと説教されたりすると耐え難い気持ちになり反抗的な態度をとることさえあります。

子どもに対する面接で「最近叱られたことがありますか」「どんなことで、誰に叱られましたか。」と尋ねられることがあります。また、父母に対しても「本気で叱るようなことがありますか。」「どんなことでよく叱りますか。」と尋ねられることがあります。この質問には教育的効果を期待して叱っているのかどうかを判断材料にしているように思います。

(ハ)親の背中を見て「叱られる」

昔ながらのしつけの方針が否定され、しつけの方向性が見失われ、伝統的な価値観が崩壊され、生き方のモデルが失われているような現代では、自分なりの明確な方向性を持っていないと自信を持って叱ることはできません。まず、親の側が自分なりの生きる姿勢を確立することが大切と思います。自分の生きる姿勢がはっきりと定まってこそ子どもの方向づけの展望を持つことができるでしょう。

上手に叱れない背景には、叱る親の側に迷いがあることと生きることに関するビジョン(人生観)が持てないことにあるのではないでしょうか。自分自身がどのように生きたいか、どのように生きるべきかが明確であれば子どもに望むビジョンも明確になり、自信を持って叱ることができるでしょう。

諺に「子は親の背中を見て育つ」とありますが叱られるプロセスの中で子どもは親の生きる姿勢を学んでいくのだと思います。

叱るという行為は、叱る側の信念、信条、人生観、人間観に裏打ちされた言動でなければ説得力はありません。マニュアル的なとってつけたような叱り方は建設的効果、或いは教育的効果は望めないばかりか反感さえ持つでしょう。

自分なりの価値観、生きるスタイルを確立するとともにコミュニケーション・スキルを磨き、マニュアル的な基準に依存せず、自分なりのスタイルを持って叱ることが出来るようにしたいものです。

小学校入試願書の記入欄に家庭の教育方針を記入する欄がありますが我家独自の価値観、生きるための生活のスタイルを反映した内容にしてインパクトのあるものにしたいものです。

(ニ)良好な関係の叱り方

自分なりの価値観、人生観に裏付けられて叱ったとしても、子どもとの良好な気持ちの交流がないと、逆効果になりがちです。

「うまく叱ることが出来ない。」という親も少なくありません。

人は理屈で動くものではなく、気持ちで動くものと思っています。相手から人の言動を指摘されると、それが的を射ているとしても素直に認める気持ちになれず、つい反発することがしばしばあります。

ある種のプライド(自尊心)と言えるでしょう。ところが相手と良好な関係にある場合、素直に認める気持ちになれるのです。親子関係でも同じことが言えると思います。親子が良好な関係でなければ、相手は叱る内容が的中していればいるほど悔しくて、逆に腹がたったりもします。これが人情と言うものでしょう。

例えば、冗談っぽく、からかわれた時、関係がうまくいっていない相手から言われる場合、人を馬鹿にした言葉として受け止め、反発するでしょう。逆に良好な関係の相手から言われる場合は、温かい励ましの言葉として真摯に受け止めてくれるでしょう。このように感情に左右されるのが人間で、「叱る・叱られる」という関係の心理は実に微妙なものと言えます。叱る側の判断が理にかなっていても叱られる気持ちが受けつけてくれないと何の効果も期待できません。叱るという行為が教育的効果を持つためには、

・双方(親子)の気持ちが通い合っていること、

・双方(親子)の間に信頼関係が成り立っていること

が必要な条件と言えるでしょう。

叱ることが出来ないということは、信頼関係を築いたり、温かい交流を持ったりするのが苦手であることの表れと言えるかもしれません。上手に叱れるようになるためには、子どもとの関わり、関係づくりが前提になると思います。

親の入試面接で、「ご主人のお休みの日は、お子さんとどのような関わり方をしていますか?」あるいは「お子さんとどんな遊びをよくしていますか?」等々の質問は親子に良好な関係が成り立っているかどうかの判断材料になるでしょう。

 (ホ)「叱られること」に慣れていない子どもとは・・・

今の多くの子どもたちは叱られることに慣れていないと聞いています。親が子どもを叱ることの出来る信念を持っていなかったり、自分のことで精一杯で子どもを叱る心の余裕がなかったり、また友だち的な馴れ合いに埋もれて教育的配慮が希薄だったりとさまざまな要因が考えられます。いずれにしても親から厳しく叱られることがあまりない子どもが増えていのは事実のようです。

叱られることに慣れていない子どもは、例えば他人(先生や近所の大人)から叱られると、衝撃のあまり感情的な反応をして身構えてしまい、建設的な方向に意味づけたり意識づけたりすることができません。攻撃されたかのように受け止め、攻撃的な反応を示したりします。或いはまた、他人(先生や近所の大人)を極度に恐れて引きこもり的な反応を示すこともあるのです。

多くの子どもは「目は口ほどにものをいう」の諺にあるように大人(特に親の場合)の表情で態度を一変することさえあるのです。良くも悪くも大人の目を敏感に感じ取っています。親の物言わずの態度(叱り)ほど子どもを精神的に動揺、或いは圧迫させるものはありません。子どもは、どう言えば良いのか、どう行動すればよいのか不安になってきます。このような場面が多くなればなるほど情緒的に不安になり、やがて自律的な行動、主体的な発言等は徐々に消極的になるのが一般的です。

無言のまま子どもをにらみつけるような叱り方は避けて年齢相応の言葉で教え諭すことがなによりも子どもを素直に育てる方法と思います。

過剰な面接練習をした上で入試本番に臨むと萎縮してしまう傾向が見られ、期待していた面接が出来なくなることも少なくありません。多くは過剰な練習による親の注文が多いのが原因です。

(へ)全ては親子の信頼関係から

叱ることが人間形成に影響を与えるためには、子どもとの間にしっかりとした信頼関係が成立していることが前提になるとを先に述べましたが、叱る作用に影響する全体的な状況の中で、信頼関係は最も重要な要因と言えます。

子どもとの信頼関係とは、子どもから大人へ、或いは、大人から子どもへの一方的なものではありません。大人も子どもを信頼するという相互的な関係が成立してなければなりません。むしろ大人の子どもに対する信頼感こそ互いの信頼関係の前提であるかもしれません。なぜなら、大人が子どもを信頼しなければ、子どもは大人(親)への不信を感じ取り、大人に対して信頼感を持つことはできないでしょう。加えて、信頼関係を抽象的なものとして捉えては十分ではありません。親はしばしば子どもの信頼関係を言葉で成立させようとします。親は往々にして一段高いところから物事を語り、それによって親としての尊敬と威厳を勝ち取り、子どもとの信頼関係が成立したと勝手に思い込んでしまいがちです。関係性をこのように抽象的なものに捉えていたのでは、子どもに充分な影響を及ぶすことは極めて困難と言えるでしょう。

例えば、親子での遊びについても子どもの楽しさ、面白さを共有することに努めなければ信頼関係は生まれません。

子どもとどの程度の時間一緒に過ごし、親子の付き合い(ふれ合い)をしているか。こうした具体的な行動の積み重ねこそが信頼関係の内実として理解されねばなりません。共に行動する関係の中でこそ人は人に影響力を及ぼすのであり、子どもが叱られるという体験を肯定的なものとして受け止めることができるのです。

子どものために叱る。これが徹底的にできるためには、子どもへの愛情が基礎になります。愛情という言葉が曖昧過ぎるとすれば、子どもを成長しつつある一人の人間として尊敬することであると言い換えることができるでしょう。

面接で「子どもとの関わり方」について尋ねられることがしばしばありますが親子の信頼関係の深さを知りたいためと思っています。

(ト)日本人独特の叱り方

戦後の日本は、親を始め、先生を含めた周囲の大人は、厳しいしつけや教育上の「叱る」の場面になるとどうしても甘くなる傾向があるようです。

母親は、「そんなにわがままを言うのならお父さんに言いつけるよ。」といい、お父さんは、「言うことを聞かないと先生に叱ってもらうよ。」と言い、先生は「そんなに聞かないのなら校長先生に叱ってもらいますからね。」と言います。そうなると、最後の校長先生は誰に叱ってもらえばよいのでしょう。

とかく親(特に母親)は権威のある第三者に頼ろうとする傾向があります。この会話の裏には親子が甘えで結ばれているために厳しいしつけであるはずが甘くなっているのだろうと思っています。

それにしても、現代の第三者の権威や威厳は低下し、厳しく叱らなくなっていると思います。その理由の一つとして挙げられるのが友達的あるいは友好的な親子関係になっているのではと思うのです。

昔は、父に対して畏敬の念を持ち、先生や校長先生には権威があるのを子ども心に感じていたものでした。お巡りさん(警察)はその最たるものでした。大人に対しては、日常の生活の中から「長幼の序」というものを感じとっていました。

戦前は、時代背景もあって、叱ってしつけるというよりは怒ってしつけていたように思います。親も教師もそして周囲の大人たちもしつけには厳しかったように思います。叱るというよりも怒鳴っていたように思っています。「理屈をいうな!」「言い訳を言うな!」等は日常茶飯事で子どもの人格を無視した問答無用とも言えるようなしつけ教育だったように記憶しています。今と違って叱る側の威厳、権力というものを背景にしてしつけ教育がなされていたのです。これでは教育的効果は期待できるはずもありません。ところが大人の価値観が大きく変わり、現在ではこれ等は低下し、叱るに叱れない立場になったために叱っているつもりがいつのまにか感情むき出しになって怒ってしまうのでしょう。感情的に怒るから「言い訳(釈明・反論)」を排除しようとするのです。ここから、今社会問題になっている虐待に発展すると言えるのではないでしょうか。ちなみに裁判では「言い訳」は認められているのです。たとえわが子であっても、感情的に自分本位の叱り方は禁物でしょう。子どもには子どもの人格あり、これを傷つけるような叱り方は賛成できません。

(チ)価値観の違い

「女の子はあぐらをかいてはいけません!」

「みっともないことをしてはいけません。」

「歩きながら物を食べてはいけません!」と言おうものなら、言われた側から猛反発を受けるに違いありません。時代の流れに伴う価値観の変化というものでしょう。

規範の曖昧化と同時に、価値観は揺らぎ、いわば「なんでもあり」の状況になり、規範事体も変わってきました。価値観は相対比化し、確たる規範に基づいて子どもの行動を修正することが困難になっているのが現実といえるでしょう。

「子どもは親や先生、あるいは目上の人の言うことを聞くもの」という考え方は通用しにくくなっているのが今の世相です。

何を根拠にどのように叱ればよいのかわかりにくくなり、親は叱るのにためらったり、躊躇したり、或いは自信が持てなくなったりするのです。このように考えると、「叱り」は、相手への愛情と親の生きる姿勢、価値観、人生観が問われるところに行き着くように思うのです。

(リ)子どもの成長に合わせた叱り方

子どもの成長に合わせた叱り方について述べてみます。

子どもの「成長に合わせる」場合の大切なことは、まず、子どもが持っている思考的枠組を理解し、それに応じて叱ることです。大人が持っている思考的枠組だけで叱ってはならず、発達とともに変化していく子どもの思考的枠組を理解していないと、大人による一方的な叱り方に留まってしまいます。

例えば、叱り手の要求水準が高すぎると、叱っても教育的効果はあまり期待できません。むしろ相手に無力感や反感を生じさせるでしょう。叱られた子どもにとっては親が単に怒っているようにしか映らなくなってしまいます。つまり、大人の思考的枠組は子どもの成長に合わせて柔軟に伸縮させることが望ましいと思うのです。

第二に、叱り手と子どもが共有すべき思考的枠組は子どもの成長に伴って拡大することを認識する必要があります。見方を変えれば、その拡大とは、些細な逸脱の積み重ねによるものだと捉えることもできます。子どもが成長しても、幼い時と同じような叱り方をしているようでは大きな効果は期待できません。

第三に、子どもが成長するにしたがい、叱り手は自らの思考的枠組を子どもに理解させる叱り方をしなければなりません。叱る方法には大きな声による注意や威嚇、恫喝や身体的苦痛を伴う罰、行動の制約、教え諭すいろいろな方法がありますが注意や威嚇が善いにしても罰など物理的な刺激による叱り方は効果的なようですが歓迎されるものではなく賛成もできません。というのも、物理的刺激(体罰)を伴う叱り方は反感を持たせる結果となり、成長するにしたがい憎悪感を持つこともあり、通用しなくなります。むしろ、言葉で諭したりする叱り方が効果的といえるでしょう。この「教え諭す」ことは、結局、大人の持つ思考的枠組を子どもに理解させることにほかなりません。

第四に、成長とともに「叱る」頻度を減らすことが大切です。なぜならば、子どもは成長すれば大人の思考的枠組を理解し、自らの逸脱した行為を自覚するようになるからです。叱られたことが警告や負の評価として機能しなくなるからです。つまり、子どもは叱られなくても「わかっている」のです。にもかかわらず、頻繁に叱っていれば、子どもは単なる「大人の小言」にしか聞こえなくなり、叱りは空回りになるでしょう。そこで叱るタイミングを見極め、ツボを押さえて叱ることが大切になってきます。

さて、下手な叱り方とは、相手の行動を改善させられなかったり、またその改善を長続きさせられなかったりする場合です。叱り手が一方的な考え方で叱ったり、感情で叱ったり、あるいは子どもが理解できない状態で叱ったり、目的のための叱り方に一貫性がなかったりすれば、子どもの行動は改善させにくくなると思います。

叱り方を考える場合、特に留意したい点は、叱り手自身も成長しようとする自覚を持つことではないでしょうか。つまり、「叱る」という行為を通して、自ら思考的枠組を変えたり、拡大したりすることができるようでなければなりません。

例えば、「なぜ、この子は叱られているにもかかわらず、一向に行動が改善できないのだろうか。」という状況では、叱り手の思考的枠組がもはや時代の流れに合わないことになっているのです。その意味で、子どもを叱ることは叱り手自らの思考的枠組を見直す機会となり、その見直しによって叱り手は成長することができるのです。裏返せば、叱り手が成長しなければ子どもの成長に合わせて叱ることは難しいといえるのです。

面接で「最近本気で子どもを叱ったことがありますか。」と親に尋ねることがありますが前述ように、躊躇せず、一貫性を持って叱る自信を親が持っているかどうかを確かめているのでしょう。

B・家庭のしつけ(甘やかす祖父母)

「祖父母が甘やかすのでしつけができない。」とか「祖父母の子育ての考え方に同調できない。」という声をよく耳にします。私にも孫が四人いて祖父母としてどのように関わっていくべきか常に考えています。いろいろな文献を参考にしながら子どもを育てた経験者の一人として祖父母と孫の関係を述べてみます。

(イ)祖父母にとっての孫

祖父母にとって孫の誕生は多くの場合喜ばしいもので、健康感を与えてくれ、生きる力を与えてくれます。孫の誕生によって祖父母は「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばれることになりますが実際には「おじいちゃん」「おばあちゃん」という言葉から連想するような老年期を迎える以前の、五十代、六十代で孫誕生を経験する人が多いようです。私もその一人で老年にはまだ早すぎます。平均寿命が延び、祖父母である期間は長期にわたり、孫の成人を見届けることはおろか結婚式、あるいは曾孫を見届ける場合も多い長寿国になっています。一方では、孫と同居している祖父母の割合は年々減少し、三世帯が同居している世帯は1970年では19.2%であったのに対して2002年では10.0%となっています。このような人口の変動は祖父母と孫の関係に大きく影響を及ぼしていると言えるでしょう。  かつては、孫は家の伝統、しきたりを継承する後継者として認識されていたのが一般的でした。現在ではそのような傾向は極度に弱まり、祖父母との関係は家風の継承やしつけを主眼とするものから友好的な関係に変化しているとも言われています。実際、入園式、幼稚園の運動会、発表会、あるいは家庭での誕生日などの行事であったり、お小遣いやプレゼントをあげたりという一時的な「もの」がやりとりされる関わりが多くなり、精神的なかかわりは極端に少なくなっているのではないでしょうか。

責任や扶養の義務、責任の伴わない一時的な関係ではしつけや教育の意識は薄まります。結果として世代から見ると「甘やかし」ということになるでしょう。

気さくで情緒的に温かい友人のような関係を孫との間に築く祖父母がいる一方で、孫に対して必要以上に関わらず、距離を置いている祖父母がいるのも事実です。

積極的に孫への関心を表明しないスタイルをとる祖父母の存在の出現した理由の一つとして、戦後に急速に広まった夫婦家族のイデオロギーの影響があげられています。このイデオロギーのもとでは、祖父母は子どもの核家族に対して距離が置かれ、孫への責任と権利は子ども夫婦にあり、自分達老夫婦は求められるまでは口出しすまいという意識が働きます。この結果、孫のことは非干渉でいる態度が生まれたように思うのです。

同じ敷地内に家を2つ建てたり、一軒の家に玄関が2つあったり、あるいは、台所が2つあるような同居のスタイルが現れたのもイデオロギーの影響を反映しているのかもしれません。

このような関係の変化も、子世帯と祖父母の世帯の葛藤や意識のズレにつながってはいないでしょうか。

祖父母の意識には子世帯のことには干渉しないというイデオロギーが働いているとすれば、アドバイスもあえてしないということにつながるでしょう。

子世帯の側にも当然自分なりの生活に口出しして欲しくないという強い意識があるでしょうからアドバイスは受け入れ難いということになります。ではどのように祖父母との関係を築いていったらよいのでしょう。いくつかのタイプを考えてみました。

面接では祖父母同居の場合、家族との、孫との関わりを尋ねられることがしばしばあります。

(ロ)甘やかす祖父母の立場

子世帯との別居の場合はとくに、孫と会う頻度は月に1回、あるいは、年に数回と少ないのが普通です。そうなると日常的な孫との交流は少なくなり、一時的な交流しか期待できません。滅多に会うことのできない孫に対して祖父母はどうしてもよい顔をしがちです。叱ったりすることは滅多にないでしょう。孫にしてみればおじいちゃん、おばあちゃんは自分の言うことは何でも叶えてくれる存在、甘えることのできる存在として意識され、いつもよりわがままになるかもしれません。

このような場合、父母がいないところで祖父母に会うことは少ないので、孫と祖父母の直接的な関係を築くことが大切だと思います。

祖父母が孫を訪ねる機会や、孫と祖父母だけが過ごす時間を増やし、両方の関係を深めることが必要ではないかと思うのです。

子世帯がいれば叱る役割は子世帯に任せ、自分たちはその役割から離れることができますが子世帯がいなければ自分たちがその役割を担わざるをえなくなり、叱ったり、注意したりすることが出てくるでしょう。また、祖父母から見ると、たまにしか会わない子世帯の子育ては厳しく見えがちです。祖父母との意見が食い違うこともあるかもしれませんが自分たちが大切にしていることを主張するとともに、たまにしか会わない関係だからこそ見えてくるものがあるはずなのです。祖父母の意見を聞き、生活に取り入れていくものが少しでもあるとすれば、子どもの祖父母に対する存在を充分に認識するようになるでしょう。「亀の甲より年の功」の諺にあるように積み重ねた子育ての経験の中に取り入れていくべきものは少なくないはずです。

面接では、「祖父母の経験した子育ての在り方が参考になるときがありますか。」などを具体的に尋ねられるときがあります。

(ハ)口うるさい祖父母の場合

同居している祖父母の場合、日常的に孫と交流する機会も多く、子どもの世話に祖父母が関わることも多いでしょう。しつけを意識する場面も多くその度に叱ることも再々出てきます。いつも優しいおじいちゃん、おばあちゃんでいることは難しく、時に注意したり、叱ったり、あるいは感情的になって怒ることもあるでしょう。

孫にとっても自分の思いを叶えてくれるおじいちゃん、おばあちゃんという意識より口うるさいおじいちゃん、おばあちゃんと思うことが多くなります。

孫にとって尊敬できる存在として認識できるのは、祖父母に対する両親の受け止め方に左右されると思います。祖父母に対して不遜な態度や言葉のやり取りをしていては、尊敬の念は生まれません。

孫の目の前での感情的な親子の口論はお互いに自尊心があるがゆえに避けたいものです。このような場面のくり返しは、孫の将来にとってよい結果をもたらすとは考えにくいでしょう。

日常的に祖父母の目があると、それが気になり、母親(父親)は子どもをきっちりと叱ることが難しくなるかもしれませんが祖父母の目があっても、しっかり叱れる態度が大切だと思います。

つまり祖父母には祖父母の生き方、父母には父母の生き方があり互いに尊重し合い、認め合って、その中から共有する部分を大切にして生活すれば子どもはよい面を学び取って成長すると思うのです。

(ニ)干渉しない祖父母の場合

子世代から見ると、子育てに祖父母が口出ししないということは、一見良いことのように見えるかもしれません。実際に、祖父母が子どもを育てた時代とは世相は様変わりしました。育児用品も随分と変わってきました。ものの考え方も、親子でありながら価値観も随分違っているのが現在の社会です。しかし、異なる世代の者同士が子育てに関わることは大変重要なことと思っています。

現在の子育ては、子世代が関わることが多く異世代が関わる機会は少なくなっていると思います。

三世代同居が当たり前であった一昔前は、結婚して子どもを生むまで兄弟や近所の子どもの世話をしていました。そしてその子どもが結婚して子どもを生み、その子が成人したら今度は孫の世話をするというように、さまざまな世代の人々が日常的に子育てに関わってきました。そこでは当然子育て、しつけに関する意見交換も活発に行なわれていました。一方、限られた世代で行なわれる現代の親たちは、自分の子育ては「これでいいのか」という不安を抱えながらの子育てをしているように思うのです。この不安から育児書に頼ったり子育てのマニュアルに頼ったりするのだと思うのです。

百人百様の子育てがあるにもかかわらず、今や「子育て相談室」は多忙を極め、育児雑誌も氾濫し、購読している親も多いと聞いています。この現象は子育てに悩みと不安を抱いている母親が多いことを裏付けているのではないでしょうか。同時に子育てをマニュアルに頼ろうとする傾向の強いのが現在の子世帯の傾向のような気がするのです。子育てマニュアルを絶対的なものと受け止めている親も少なくないと聞いています。

子育ての経験者としての祖父母からの言葉かけ、アドバイスは母親の気持ちをどんなに楽にし、不安を少なくしてくれるでしょう。祖父母の経験から生まれた知恵をもっと活用すべきだと思うのです。

子世代からの働きかけによって、子育て状況に新しい風が入るかもしれません。少子化が進み、近所づきあいのネットワークが薄れてしまっている今日では、祖父母の果たす役割は大きいものがあるはずです。双方の歩み寄りを期待して子育てをしたいものです。

C・具体的なしつけとは・・・

幼稚園や学校は集団生活の場といえます。それだけにいろいろな場面で幼児や児童の生活形態を垣間見ることが出来るのです。授業中に席を離れて立ち歩いたり、使ったものの後片付けをせずそのままにしたり、日頃の挨拶である「おはよう」「こんにちは」「さようなら」さえ言えない子どもが増えているそうです。そのため文部科学省では基本的な生活習慣の徹底を図ろうと、さまざまな対策を講じています。例えば、低学年の道徳の時間の重点目標として、基本的生活習慣を取り上げ、高学年ではルールやモラルの向上を図ろうとしています。しかし、どんなに保育所、幼稚園や学校で実践しても、しつけの基本は家庭であり、親であると思うのです。そこでしつけに強い関心に変容してもらいたいと思います。

まずは、子どもの現状を知ることから取組みが始まります。

@)自分自身のこと

     (1)カバンをおろすと持ち物の整理をしないままに、自分の興味のある事から先に始めてしまう。

例えば、しなければならないことを先にせず、外へ遊びに出かけたり、教室内でおしゃべりをしたりする。

     (2)持ち物の整理整頓が出来ない。

(3)書いてもらった連絡帳を親に見せたり、確認してもらったりしない。

(4)服装が自分で整えられない。例えば、いつもシャツが出ている。

(5)手洗い、うがい、歯磨き、鼻をかむなど清潔に対する感覚が希薄である。

(6)机の上が、前時のままで次のおけいこ(勉強)に取りかかる。机の上はいっぱいになって机の周りに落し物が出る。

(7)授業中、思いついたままに、自分の気分でたち歩く。

(8)授業中、椅子の上に膝を曲げて座ったり、机の上にうつぶせになったりして姿勢が悪い。

(9)給食中に、口に食べ物を入れたまま立ち歩いたり、話したりする。

10)小さな失敗や間違いなどに腹を立てたり大きく動揺したりする。

A)人とのかかわりに関すること

(1)並んで待つことが苦手で平気で割り込みをする。

(2)日常の挨拶が出来ない。

(3)友達との争いやいさかいが多い。
 
  (4)平気で嘘をついたり社会(友だち間)のルールの順守ができなかったりすることが多い。

入試で「行動観察」を設けて、集団との関わり方の融和性を

問題視して観察している学校が現在ではほとんどです。

(イ)姿勢について

挨拶と同じように、姿勢は集団生活やおけいこ(学習)に対する気持ちの表れと捉えられると思います。姿勢の良い子どもはおけいこ(学習)に意欲的であり、積極的で目も輝いていて表情も生き生きしています。反対に姿勢の悪い子どもは、おけいこ(学習)に対して消極的で集団全体の雰囲気を下げたりもします。また、子どもたちの健康状態の表れでもあります。つまり、体調が悪かったり、精神的にイライラして不安な気持ちになったりして物事に集中できず、自ずと姿勢が悪くなるのです。

子どもの姿勢を見れば、その子の生活の様子、状態がある程度うかがい知ることが出来ます。子どもたちの悪い姿勢を直すには日常的な取り組みが大切です。

@)よい姿勢の大切さ

姿勢を良くすることがなぜ大切なのか、ここから子どもたちに理解させることが必要です。

「姿勢が悪いと、体に良くないし、健康にも悪い。」と言うだけでは説得力はありません。

@姿勢が悪いと目に悪い。目が悪くなる。(30cmぐらい離して読んだり、書いたりする。)

A骨・筋肉・内臓全てに不均衡な力が加わり、体が痛くなったり疲れやすくなったりして健康に害を及ぼす。

などを具体的に教え、よい姿勢によって気持ち良く物事に取り組めることを実感させることです。また、姿勢には、その時その時の気持ちややる気も表現されることを教えます。自分が周囲にいる人にどのように見られているかということにも気づかせたいものです。

A)よい姿勢を具体的に教える

机に向って座ったり、お話を聞いたりするとき、どのような姿勢をとれば良いかを具体的に教えるようにしましょう。例えば、「おへそのところにげんこつ一つ分ぐらい空けて、椅子を引きなさい。」とか「お話は、手を膝の上に置いて聞きなさい。」と言って日常的に習慣づけるようにします。場合によっては、手を後ろで組ませる方法もあります。

背筋の伸びた良い姿勢の習慣がつくと、子どもたち自身も楽な姿勢だと感じるようになります。そして、お話を集中して聞くことができるようになります。

B)猫背を直す

悪い姿勢の子どもの多くは背中が猫背になっています。こどもたちが座っている時や立っている時に、そっと後ろから近づき「肩を後ろに引いてみては?」と声をかけながら、両手で肩を後ろに引き、胸を張らせるのもよい方法です。はじめは嫌がる子どももいますがこれもまたスキンシップの一つで年齢の低い子どもほど受け入れるのが早いのです。

集団のおけいこの中で、他の子どもが指導されているのを見て、自分自身の姿勢に注意するようになるでしょう。集団でのおけいこには意外なところで意外な教育的効果を上げものなのです。

C)姿勢は必ず直せる

姿勢は、日常的な習慣づけによって必ず直すことが出来ます。ですから子どもに毎日気をつけさせ、きちんとした姿勢を声がけすることによって良い姿勢を習慣つけることが出来るのです。声をかけて注意を促し、良い習慣を身につけさせることは、やがては子どもの良い宝となります。そのためには、親自身が良い姿勢を示し、子どもにとって良い手本となるべきであることは言うまでもありません。

入試に際して姿勢の良し悪しは直接関係のないことかもしれませんが良い姿勢は見る人にとって印象を良くすることは間違いありません

(ロ)・整理整頓(後片付け)について

整理整頓(後片付け)ができない原因として考えられるのに三つほどの原因あります。この三つのそれぞれの原因の対応の仕方について述べて見ることにします。

@)整理整頓をしたことがない

まずは、整理整頓をした経験の少ない場合です。少子化の時代となり、周囲の大人が過剰に手を出して片付けてしまうことが多いと思うのです。また忙しい大人のペースで生活していると子どものペースに合わせることが出来ず、つい大人(特に母親)が手を出してしまうのではないでしょうか。その結果、子どもは、片付け方、すなわち整理整頓の経験が極めて乏しくなるのです。この積み重ねがないため要領よく片付けられなくなると思うのです。

@もとあった場所に元通りに返すこと、

A同じものは同じもの同士集めて整理すること、

  B入れ物にしまうときには形や大きさを考えて大きい物から先に入れてから小さい物を入れる。

という基本的なことを教えなければなりません。どんなに時間がかかっても手出しをせず、子ども自身に片付けさせるようにします。初めは時間がかかりますがしだいに要領がよくなり、短時間で整理整頓ができるようになります。知っていることとできることは別問題と捉えるべきでしょう。(知識・常識と実践のくり返し)

入試では、生活習慣の一つである整理整頓がどの程度身についているかを集団行動の中に取り入れ観察することがしばしばあります。

A)できるでも時間がかかる

次は、整理整頓の仕方はわかっているが、遅い場合です。この場合は、子ども自身に早くするような意識づけとそのためのトレーニングが必要です。幼稚園や学校は集団生活の場であることを理解させ、ある程度の速さで一緒に行動しなければならないことを教えなければなりません。そして、少しでも早くできるようになったら誉めてあげることです。誉めることによって子どものやる気を引き出し、さらに頑張ろうとする気持ちを育てるようにします。

B)不器用で、上手にできない

三番目は、手先が不器用で思うように整理整頓ができない場合です。この場合は、手や指をできるだけ多く使う機会を与えることが必要です。子どもが手や指を使うことは、脳の活性化を促し、頭が良くなることを親も認識しておきましょう。

家で折り紙やおはじき、お手玉などの遊びを取り入れたり食事の支度や料理などのお手伝いをさせたりとできるだけ手や指を使う機会を多く持たせることです。手先を使うことによって、ある程度器用に動くようになり、整理整頓も早く上手にできるようになります。

いずれにしても、自分自身の整理整頓ができるようになったら、自分が使わなかった物にも目が向くようにさせたいものです。それが集団生活を気持ちよく進めていくために大切であることを実感させるようにします。

現代は、整理整頓が苦手で出来ない保護者も結構多いようです。何が必要な物で何が不必要な物のかわからないで何でもかんでもとっておき、捨てられないで机の引き出しは詰め込むだけ詰め込んで、いざ必要なものを取り出す時に大変な苦労をして見つけ出し、疲れ果ててしまうのはよくある話です。

整理整頓のできない人は、頭の中も整理整頓が出来ないと子どもの頃よくしつけられてきました。もちろん、大人になると、その人なりの整理整頓の仕方があり、一見ゴチャゴチャのようでも、何がどこにあるかしっかりと頭の中に入っている人もいます。

しかし、整理整頓の基本は、子どもたちにしっかりと身につけさせておかないと頭の引き出しの中に整理されて入っていかないことになります。

 

D・乱暴な言葉使いをする子

乱暴な言葉を使う子どもは、大人であっても、子どもにとってもつらい相手、不愉快な相手と言えるでしょう。

乱暴な言葉を子どもたちはどこで習得しているのでしょう。それは、メディアでありテレビドラマでありマンガの登場人物の言葉、そして交友関係にも大きく影響されます。ドラマやマンガの登場人物に同一化したり、非現実化の世界に魅力と憧れを感じたりして、その言動を模倣したりするのです。交友関係では、年上の友達の言葉を真似るのは憧れを感じて模倣するのです。

集団の中で乱暴な言葉を使う子どももいます。これは、自分の存在を誇示しようとする場合が多く、その都度注意を促す必要があります。また、お父さんが何気なく使う乱暴な言葉も父親への憧れを持って真似ます。母親の言葉についても同じことが言えます。何気なく使っている夫婦の会話の言葉を学び取っています。親は、十分に注意しなければいけないことの一つだと思います。

(イ)社交的訓練で

親、友人、一般の社会人に対してある場面を設定して言葉のやり取りを訓練する学習があります。英会話学習によく用いられる手法です。幼児にとってもこの手法は正しい発言を活発にさせる一つの方法だと思います。

その場、その時に合った幼児の適切な言葉使いは日頃の生活形態から生まれるといっても言い過ぎではないと思います。いろいろな場面を想定した会話練習は・正しい言葉使いを高め、意欲的な発言・発表力を高めるものと思っています。つまり社交的な訓練によってその場、その時の適切な言葉を正しく使うようになると思っています。

小学校入試の面接にも問い掛け問答が出題されることがしばしばあります。例えば、「デパートで大切なものをなくしました。デパートの人に何てお願いしますか。」といった場面で子どもは現実の世界を考えるでしょう。また、遊んでいてよその家の窓ガラスを割ってしまった状況を想定した問答、友達に大切な本の貸し借りにトラブルが生じた場面の問答はこれまでに小学校入試の面接に出題されたものです。また、感情の高まるような場面も想定した問い掛け問答もよく見られます。乱暴な言葉を使う子どもは、一般に自分のテンションが上がっていく場合が多いと言われています。

(ロ)乱暴な言葉をどのように直していけばよいでしょう。

乱暴な言葉を使った時、親、周囲の大人はどのようにその場で対応すればよいでしょう。

乱暴な言葉を投げかけられたときには放置して対応無しにしておくと乱暴な言葉は強化されてしまいます。そこで「そんなことを言われたらどう思う?」「どんな気持ちでそんなことを言うの?」「そんな言い方は嫌いよ。」「そんな言い方をするとお母さんは悲しくなってくるよ」と相手の感情に踏み込んでその場で適切な言葉づかい指導すればよいでしょう。当然のことながら家族間の、特に夫婦は、少なくとも子どものいる場所での言葉のやり取りに充分注意することは言うまでもありません。

(ハ)子どもは、聞いて学び、真似て習得

前にも述べましたように、言葉づかいは周囲の環境に左右されます。父親の言葉を真似たり、母親の言葉を真似たり、周囲の大人、友達の言葉を真似ます。特に親の目に届きにくい友達関係から得る言葉は見過ごすわけにはいけません。

「子ども同士の交際は親同士の交際」という考え方は幼児期の子育てには大切なことと思います。つまり、生活環境によって言葉づかいも変わっているからです。

挨拶や言葉づかいは社会で生活をする上でのマナーや礼儀であり、良好な人間関係を保つ技術です。

子どもが成長するにつれて、社交の範囲が広がります。これに伴い、家庭で使ったこともない粗暴で野卑なそして品性のない言葉を使い始める時期があり、親を驚かす時があります。

「挨拶ができない。」「言葉づかいが乱暴で野卑。」という子どもは大きく分けて次の3つに分類できます。

@挨拶やその場その場の適切な言葉を習得していない。

子どもを含めた日常生活の夫婦間の挨拶、近所づき合いの挨拶を子どもは見たり、聞いたりして習得します。そしてその時その場の適切な言葉を学んでいきます。

A仲間づきあいで学んだ言葉が不適切な挨拶や言葉の場合。

友達の言葉使いにも大きく影響を受けます。いったん習得した適切な言葉でも仲間の言葉使いや態度に憧れて真似るようになります。「そんな言葉、誰に教えてもらったの。」と仰天する母親も少なくないと思います。隣近所の仲間、幼稚園でのお友達、テレビ番組の影響が大きな原因です。

B成長過程に見られる反抗の時期。

年齢が高くなるにつれて反抗期から出る粗暴、野卑な言葉を使い出します。最近では社会性が未熟でソーシャルスキルを学べていない子どもに増えていると聞いています。

「ありがとう」「ごめんなさい」「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」「おかえりなさい」「ただいま」「いただきます」「ごちそうさま」等の挨拶や相手に応じたその時その場の適切な言葉使いは、本来、幼い頃からの家庭生活の中で自然に学ぶものと思っています。

「少子化現象」「核家族化現象」「都市化現象」等によって家庭や地域社会の教育機能が全体的に低下しているように感じます。

一昔前までは、隣近所のおじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさんが物事の善悪をその時どきに応じて注意したり叱ったりしたものでした。しかし今では意識的に教えるか、無関心かのどちらかではないでしょうか。

基本的な教え方は、

@言葉で教える。     A誉めて、意欲を高める。

B見本を示して真似させる。C普段の生活で活用させる。

このくり返しによって、その場その時の適切な言葉を習得するのです。「親しき仲にも礼儀あり」という諺がありますが礼儀は言葉から始まるものと思うのです。

子どもたちは、集団生活(集団でのおけいこ)の中にもお手本となる子どもがいるはずです。そのような子どもの発言をよいモデルとして真似て学びます。そして活用するようになるのです。集団でのおけいこは、モデリングする対象を多く見つけるでしょう。そして、より多くの活用が活発になると思うのです。

また、メディア、マンガの中にもモデリングする対象は多くあります。周囲の人(特に両親)は、多く見つけてあげることが大切な役目と思います。

 

E・身につけさせるべき「基本形」の大切さ、親の心得

幼いときに「形」の重要性を教えることは、世の中のルールという規律を学ぶ上で大変重要なことと思っています。

集団生活の中には学ばなければならない規則・規律があり、これを幼いときに学んできたかどうかで社会に出たときに大きな差が出ると思っています。社会のルールについていけず、自分の価値をも見出すことができずに自暴自棄になる子どもも多いと聞きます。また規律も大事ですが人道としての道徳心がその前に必要であり、この道徳教育の基本を幼い頃に学ばせることが大切と思うのです。これを無視して、体験もさせずに、法律が全てであるような教育をすると、人道無視の人間となり、物優先の社会で法律を悪用するようなことにもなりかねません。

武道は、「礼に始まり、礼に終わる。」という基本があります。

何を学ぶにしても形(姿勢)があるものです。

形とは、素直である心、礼儀・礼節を学ぶ心、努力する心、忍耐の心、信念の心、行動の心、感謝の心などを身につけさせることと思っています。そのためには、常にこれらを心掛け、生活に取り入れ指導しなければなりません。これが最初、これが二番手というものでなくいくつかのことを並行して身につけさせる教育が必要と言えるでしょう。

(イ)親が最良の指導者

幼児、児童のいる家庭では両親が最良の指導者と言えます。

武道では、「礼に始まり、礼に終わる。」のごとく、何よりも挨拶を大事にします。道場に入るときの挨拶、稽古が始まるときの挨拶、指導者、先輩から指導、注意を受けたときの挨拶、終了時の挨拶等一連の流れがあります。最も大切なのは、挨拶に感謝の心が伴っているかどうかです。道場に連れて来てもらった親に感謝し、指導してもらった先生や先輩に感謝し、そして自分の健康に感謝する心です。この心が伴っていれば、自然としっかりした声が出て、誰が聞いても気持ちの良い挨拶になります。これは家庭でも本来言えることです。朝起きた時の挨拶「いただきます」「ごちそうさま」の食事の挨拶、出かける時の「いってきます」の挨拶等、一日の始まりがこれで決まると言ってもいいくらいです。

ここで注意したいのは、子どもの挨拶に親が心を込めて応えているかどうかです。子どもが今日も元気で挨拶してくれたことに感謝できる自分でありたいものです。ついありがちなのは、「子どもは元気が当たり前。」「毎日ほとんど変化のない生活がこれからも続くのは当然。」との勘違いから、親側に気が抜けていくことです。子どもにとって親は鏡であり、何より一番近い人生を通してのよき指導者であることを常に自覚し、忘れてはならないことと思っています。

(ロ)親は一生勉強

子育ては、赤子として母親の胎内にいるときからスタートしています。ここに第一の関門があります。この段階で親が親となるための人間教育を改めて学ばなければなりません。というのも子どもにとって育つ環境が何よりも人格形成に大きく影響を及ぼすからです。赤子は母体から感性を身につけるべく感じとっているのです。この胎教こそが親としての最初の教育です。それは親自身の精神性と行動力によって育まれていきます。体内の子は、親の考えや行動の全てを身につけて感じ取っています。

誕生してから、子どもは体感で学んでいきます。耳は録音機の役目をし、全てを録音します。目はカメラの役目をし、まぶたを閉じるたびにシャッターの役目をして記録して保存していきます。この事実を親が知るようになるのは子どもが言葉を学んだ後になります。

目で写し、耳で聞いたもの全てを再生して理解していることを親は認識して育てなければならないと思います。

思春期になってから、「子どもが悪くなった」と親がよく嘆くのを聞きますが子どもは決して一人で育つものではなく、一人で悪くなるものでもありません。必ず親・親族・地域の環境の中で育つのです。この環境がどうであったかが子どもの成長に大きな影響を与えるのです。正直者がバカを見るような社会をつくってしまえば子どもたちはそれに輪をかけたような人間に育つでしょう。大人は鏡であり、親もまた子どもの鏡で、子どもに行動の範を教育しているのです。大人が反省しながらも子どもと共に学ぶことが大切であり、親は「一生勉強」であると言えるでしょう。

(ハ)親も「素直に学ぶ」こと

子どもは善悪の判断が最初からできるものではなく、最初の判断は親がしなければなりません。それを体感して感じとっていきます。親が決して間違ってはいけないと言うのではありません。間違ってもいいのです。しかし間違いに気づいたならばたとえ親であっても子どもの前で親の権威、威厳を意識せず、間違いを素直に認め直さなければなりません。親がまず反省する姿を見せ、行動することに勝る教育はないと思っています。複雑化する社会環境ですが忘れてはならないのはどんな状況下にあっても「素直に学ぶ」に勝る学びはないと信じています。

人は人と共に生きるものであり、その中には基本的ルールがあり、マナーがあり、道徳があります。その基盤となるのは幼児期からのしつけ教育だと思います。ルールやマナーや道徳を守るために教育をしなければ守り方はわかりません。また、ただルールを作ればうまくいくものでもありません。

今の世の中を動かしているのは大人たちであり、その大人たちの行動を見ながら子どもたちは育っていると考えられるでしょう。親は経験をしているので先のことを予測し理解できるのですが子どもは経験が無いので数かぎりない失敗と危険を繰り返しながら体験し、成長します。このことから親は片時も目を離すことが出来ないのです。ここで気をつけて欲しいことは、親は知識では多くのことを知っています。子どもに知識だけを植え付けても理屈っぽく、短気な人間になりやすいのです。知識と実践を一体にした日常生活をさせると同時に、人間性を高めるためにしつけ教育もまた必要と思います。

「鉄は熱いうちに打て」の諺のとおり、しつけ教育も鉄を鍛えるようなものです。鉄はよく焼き、よく打てば素晴らしいハガネになり、強さを身につけます。精魂込めて基本の「形」を学ばせながら育てることだと思います。人は多くの人たちとの出会いのチャンスを等しく与えられています。その出会いの縁を活用せず、自分勝手な都合主義的な付き合いをしていては、いざという時に協力してくれる人は少ないでしょう。最近の世相を考えると、多くの人たちが、もしも物質社会の中で物質優先の子育てをしているとしたら、人間性に欠けた都合主義的な行動をするようになるでしょう。その結果、子どもたちの心に寂しさが生まれ、ストレスとなり、悪い行動となっていくように思うのです。あくまでも、人間社会の中の物質であり、物質社会の中の人間であってはならないと思います。

私は、「物の損得からではなく人の尊徳」を提唱したいのです。

人間関係や物事の判断には「絶対にこれが良くてこれが悪い」と言い切ることのできない複雑怪奇なことが多いです。これをコントロールすることが出来るようにするためにも、知識教育と実践教育に加えてしつけ教育が不可欠と思います。知識的に理論づけができても実践的に活用ができなければ「絵に描いた餅」であり、身につかないでしょう。また、幼児期から受けたしつけ教育は、多くの人たちを友達に持ち、信頼され、心の交流をし、相談し、力を貸してもらい、素直な心で受け止め、行動できるようになると思います。「人間の最大の芸術は子育て」と言われています。親は世の中という大きなキャンバスに、子育ての絵を描く芸術家になっていただきたいのです。誰もが世の中でわが子はいずれ必ず展示されます。ですから親は真剣に取り組まなければならない責任と使命があると思うのです。世間に恥ずかしくない人間を育て上げる子育ては、知識教育と実践教育、そしてしつけ教育が基で人格を形成していくものと思っています。このことを考えると親は「しつけ教育」については一時の油断も出来ないように思うのです。「親の姿を見て子どもは育つ」のくり返しをいつの時代も人間は行っていると思います。

大事なのは「人生を通して、どのように徳を積むか」ではないでしょうか。育ててもらった親に感謝し、地域やその人々に感謝できるようになることで自分も社会に役立ちたいという気持ちになるのではないでしょうか。

 

参考文献:「孫世代との関係のゆくえ」至分堂1995出版
「新しい祖父母の誕生?」安藤究著.日本評論社
「発達心理学」石田恒好著協同出版 

         
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